蔵書劣化の謎を追う (1)

スロー・ファイヤー探偵団の冒険

安江明夫



 1. スロー・ファイヤーの謎

 2. 事件の立証

 3. アーム・チェアーでの推理

 4. 探偵団、ニューヨークへ

 5. ホシの手がかり?

 6. 犯人追跡 !!

 7. 小団円




1. スロー・ファイヤーの謎

 『スロー・ファイヤー』(2)

というフィルムを、読者は見たことがあるだろうか。
 これは、酸による図書館蔵書の劣化問題に対する社会の理解を訴えるためにアメリカの図書館振興財団が中心になって作成したフィルムで、1987年の完成。テレビの全米ネットワークでも放映され、世論の喚起を促したことでも評判は高い。
 フィルムは、世界最大の図書館である米国議会図書館2千万冊のうちの25%、世界でも有数の研究図書館であるハーバード大学図書館やニューヨーク公共図書館蔵書のやはり4分の1、3分の1が劣化して使用不可能になっている現状をまず示す。次いでその原因を解りやすく説明し、さらにどのような対応が可能か、そして必要かを述べる。
 スロー・ファイヤー、即ち緩慢なる火災。火災は蔵書を一挙に喪失させるが、今、図書館、文書館の蔵書が、静かに緩やかに、消滅の道を辿っている。原因は、少し単純化していえば酸による紙の化学的劣化。産業革命に伴う紙の需要の増大、それに対応しての手漉きから機械漉きへの移行、麻や木綿から木材パルプヘの素材の変換、そしてアラム=ロジンの酸性サイズ剤(にじみ止め)の開発と普及 ---。こんな説明は、読者も既にどこかで聞いたことがおありだろう。
 そう、コウゾやガンピ、ミツマタなどの和紙材料や麻、木綿などの洋紙材料に比べて、繊維が短く強度の低い木材パルプとにじみ止めに使う硫酸バンドが、世界に脅威をふるっているスロー・ファイヤーの元凶だ。「20世紀は知的荒野の時代」と記した人もいる。いまわしきは酸性紙。
 だが、待てよ。米国の研究図書館では、蔵書の4分の1、3分の1が劣化してしまっていると言う。しかし、我々、日本の図書館ではどうか。戦後の仙花紙資料や新聞紙には劣化の著しいものもあるが、一般的な蔵書の劣化の度合いはそれほどひどくはない。1冊の典型的な酸性劣化本を探しだすのに、苦労する大学図書館も少なくない。
 これはどうした訳だ。日本の図書館の蔵書がすべて新品ということでもなければ、世界に名だたる和紙でできた本が蔵書の主体ということでもない。木材パルプと酸が劣化の原因であることは、種々の実験、科学的調査から証明されている。しかし果して、それだけがスロー・ファイヤーの原因か。犯人は口をつぐんでいるが、どこかに共犯の加害者が潜んでいるのではないか。そうでなくてはちょっとこの実状、説明がつかない。
 そこで早速、探偵団を結成して、蔵書劣化の謎を追うことにした。名付けて、「スロー・ファイヤー探偵団の冒険」。


 2. 事件の立証

 問いがわからなければ、答はみつからない。何が謎なのかを、まず、はっきりさせよう。謎は、日本に比べて米国の図書館の蔵書の劣化が激しいことだ。それを、日米両国の蔵書劣化調査の比較によって示したい。
 ところが、これが結構やっかいだ。この種の調査は種々なされてきたが、調査方法がそれぞれ少しずつ違っていて、しかも発表されるデータは大事なところだけ。なかなか、思うような比較ができない。
 手をつくしてようやく作図できたのが、第1図(3)である。


図1 劣化図書の比率 − 日米比較


*エール大学図書館の調査結果は全蔵書対象のもの、日本における3調査は洋図書のみ対象の結果をグラフ化。


 第1図は、日本で実施された三つの蔵書劣化調査とアメリカの工一ル大学図書館での調査結果を比較したものである。工一ル大学図書館の調査は蔵書劣化調査としては最大規模のもので、極めて懇切になされた調査として高く評価されている。
 調査方法は同じでないが、このグラフに表した限りでは、比較可能なものとなっている。即ち、工一ル大学の結果はべ一ジの端の2回折曲げ、日本での調査はいずれも、同じくぺ一ジの端を2、3回折り曲げてみての結果である。そして、ここで比較のために取り上げた調査対象は、エール大学のものは蔵書全体(洋書が当然多い)、日本のものは洋書のみを対象としている。これで扱っている標本対象は、ほぼ類似のものとなるはずだ。
 グラフの横軸は図書の刊行年代(10年毎)、縦軸は各10年毎の調査サンプルのうちで劣化していると判断されたものの比率(パーセント)である。
 図1のグラフは大変、雄弁である。
 まず、工一ル大学図書館調査。19世紀中頃からの本が脆弱になっている様子を、歴然と表している。これを見ると、米国の図書館の人たちが1860年頃から1930年頃までの本を”Crisis books”と呼んでいるのもうなずける。20世紀後半の本の状態が良いのは、何も紙が丈夫になった訳ではなく、経年が少ないからに過ぎない。50年もすれば、20世紀後半の本もいずれここで示される20世紀前半の本と同様の状態となることは、想像にかたくない。
 一方、日本での調査結果。工一ル大学図書館の場合と同じく、世紀の曲角をピークとする山型のグラフだ。「山型」グラフの理由は、エール大学図書館の場合と同じである。但し、その程度は、エベレスト山と富士山くらい違う。例えば、劣化がピークの1890年代では、工一ル大学図書館の88%が劣化しているが、日本ではその比率がずっと小さく21%(早稲田大学)、29%(NDL=国立国会図書館)、33%(慶應大学)である。以下、こ覧のとおりの、ほぼ平行しての山型。その顕著な差は、明らかだ。
 さあ、そこで、なぜこんなに大きな違いが生まれるか、である。日本の調査がほぼ、同様の程度の劣化を示していることからしても、何かしら、”日米文化摩擦”の臭いまでしてきてしまう。まか不思議。何だか怪しい。しかし一体、何だろう、この違いの原因は?


3. アーム・チェアーでの推理

 問題を少し整理してみよう。
 書籍用紙の劣化原因 --- 紙が脆くなる原因 --- は、通常、次の4点と言われている。
 (1) 素材  (2) 酸性度  (3) 環境  (4) 利用
 (1) (2) については、既にふれた。二つとも重要な要因である。しかし、ここで比較している調査対象は、いずれも同じ刊行時期の洋書を標本とすることによって、類似のもの、紙の素材及び紙のもともとの酸性度において違いのないものと考えてよい。つまり、この操作によって、今の場合はこれら二つの要因は無視することができる。
 (4) の利用については、利用と劣化の相関関係はないとの調査結果
(4)

もあり、また、常識的に考えても、考慮の外にはずすことができる。確かに、利用は「本」を傷める。また、劣化した紙は利用により大きなダメージを受ける。(紙が劣化し、脆くなった本を複写機にかけてコピーをとる場面を想定すれば良い。)しかし、通常の利用によって「紙」の劣化が進行するとは考えにくい。それに、図書館文化が日米で異なるといっても、巨大な劣化の違いを生むほどに利用の度合いが違うということでもないはずだ。それゆえ、(4) もシロ。
 残る要因は、環境 --- 言い換えれば資料の保管条件。蔵書がどのような場所におかれてきたか、である。
 温度、湿度、大気汚染、光 --- がまず、チェックすべき項目である。温度、湿度が高いほど、化学反応は早く進行する。それ故、酸による酸性化、酸素による酸化等による紙資料の化学的劣化は、高温・高湿の環境で早く進行する。即ち、早く紙がボロボロになる。表1で説明すると、温度25℃、相対湿度50%においた場合を基準にすると、その状態では100年もつ紙が、35℃、70%の保存環境では14年しかもたないということだ。環境の与える影響は大きい。

表1 温湿度と紙の劣化速度
(25℃、50% RH を基準とした場合)
平均温度
平均相対湿度%
70 50 30 10
35 0.14 0.19 0.30 0.68
25 0.74 1.00 1.56 3.57
15 2.74 5.81 9.05 20.70
cf. Richard D. Smith


 英国の高名な製紙研究者ハドソンは、次のように述べている。
 「……この種の研究(書籍用紙の耐久性)の必要が何故、米国の温暖な地域の図書館から生じたかは、今や容易に理解しうる。彼ら(アメリカの保存専門家)は50年ぐらいしか経ていない多くの書物がバラバラになっているのを見ている。気温が10℃も低い英国においては、類似の書物が100年から150年の寿命を期待できる。」(6)
 紙資料保存の研究・開発で大きな仕事をなしたウィリアム・バローも、同じく次のように述べる。「書物の保存にとって低温・低湿が最も重要な要因であると考えざるをえない。…… 私は英国博物館図書館の書庫で何週間も過ごしたが、そこは1年中セーターを着用しなくてはならない程の寒さ、涼しさだった。そこの新聞や雑誌は素晴らしい状態で保存されている。」(7)
 温湿度が重要であることはわかった。しかし、と、探偵団は直ぐに考え直す。高温・高湿はモンスーン地帯の日本の特徴ではないか。日本で早く紙が傷んでしまうというなら話がわからないでもない。しかし現状は逆なのだ。
 ワシントンDCの議会図書館やバローが活躍したヴァージニア州立図書館は、きっと夏には暑くもなるだろう。しかしそれでも、東京の夏の暑さに比べればチョボチョボではないだろうか。そして何よりも、蔵書の劣化規模の激しいのは、ワシントンやヴァージニアなどのアメリカ南部だけではないのだ。北緯41度、(日本でいえば青森市辺り)のイリノイ大学図書館、北緯43度(札幌市辺り)のシラキュース大学図書館、北緯44度(網走市辺り)のカナダのトロント大学図書館、がそれぞれに25%以上の劣化蔵書をかかえていると報告している。
 温湿度は重要ではあるが、気候だけでは謎が解けない。
 消去法で行こう。次は、大気汚染。
 亜硫酸ガスなどを紙が吸いこんで紙を酸性化し、その劣化を促進することは知られている。大気汚染都市ニューヨークのコロンビア大学図書館やニューヨーク公共図書館の蔵書劣化の一因はそれだといわれている。大都市におかれた蔵書が、公害の少ない田舎都市より早く傷んでいるとの研究報告もある。大気汚染は、人問だけでなく、本も蝕む。
 それはそうなのだが、東京とニューヨークを比べて、どっちの大気汚染がひどいだろうか。歴史的な蓄積を考えれば、早くから文明化したニューヨークの方があるいは激しいのかも知れない。しかし、田舎町のシラキュースやアーバナシャンペーン(イリノイ大学の所在地)が東京より大気汚染が進んでいることは、天地がひっくりかえってもないだろう。というわけで、大気汚染もひとまずはシロ。犯人リストからはずさねばならない。
 光による劣化、即ち外光、照明による紙の劣化も、まずはシロ。アメリカの図書館がすべて、利用者にサンサンとした太陽のもとで読書する習慣を強制するのでもない限り、光による劣化では、図1のグラフは説明できない。
 さて、困った。先に挙げた容疑者リストは全部シロと出てしまった。そこに結果がある以上、確かに犯人、共犯者はいる。しかもこれは、3割、4割の劣化と数パーセントの劣化という、文字どおりにケタ違いの状態をうみだしている巨悪だ。見つかれば、それはきっとはっきりした「誰か」「何か」に相違ない。
 だが、そいつはいったい誰か。探偵団は、困りはててしまった。


4. 探偵団、ニューヨークヘ

 謎解きのためには苦労をいとわないのが探偵業。探偵団は、蔵書劣化のメッカ(?)、ニューヨークに赴いた。
 花のニューヨークでまずしたことは、エンパイヤ・ステートビルに登るのでもなければ、リンカーン・センターでオペラを見るのでもない。言わすと知れたかのコロンビア大学図書館とニューヨーク公共図書館の蔵書の森の探検。そして目的は勿論、謎の犯人探しだ。
 日米の蔵書劣化調査を比較してはみたものの、今一つ、その結果に自信がもてなかった。何せ、違いがはっきり出すぎていて、しかもそれを説明できる理由が見つからない。アメリカの図書館を訪問した友人に聞いても、「いやー、蔵書の保存状態は日本もアメリカも変わりませんよ」と言う。何か比較の手順を間違えているのではないか。調査方法が違うのではないか。そんな気もしばしばしてきて、気弱になる。調査方法も、官能法という調査者の目や手に頼る主観的な方法である。日本人とアメリカ人が、違う触覚をもっていたら? なんて変なことまで考えてしまう。
 それ故、何といっても、実際にモノを見てみなくては。探偵団は、コロンビア大学のキャンパスに散らばっている図書館から図書館、そして書架から書架へと歩き回る。本の調査は手慣れたもの。書棚から本を抜き出して1880年代から1940年代のものを、あれこれと手に触れていく。
 Alas!! アメリカ人ならきっと、そう言ったであろう。日本人探偵は、言葉も発せず、息がとまり、悪くなった心臓をさするばかり。今思い出しても、心臓がおかしくなりそうだ。
 スロー・ファイヤーは本当だった! おそろしい事実だ。
 「瀕死の蔵書」と言おうか、あるいは「蔵書の墓場」と表現しようか。
 例えば1880年から1910年刊行の図書では、全部アウト。つまり、それらの本のぺ一ジの端を2、3回折り曲げるとすべて切れてしまう脆さ --- 我々の調査でいう britt1e の状態 --- だ。工一ル大学図書館での調査結果のあの「エベレスト山」 --- 19世紀後半から20世紀初頭の図書の殆とが ”脆弱” --- が、眼前にある。
 直ぐに、学術図書500万冊を誇るニューヨーク公共図書館に飛んでいった。そこの大閲覧室の参考図書、歴史資料室の開架図書、そして許しを得て入れてもらった書庫の資料を見る。もしかしてと思ったが、ここでも状況は全く同じ。
 フィルム『スロー・ファイヤー』中のジョン・べ一カー保存部長(ニューヨーク公共図書館)の痛々しい説明が、耳に甦る。
 「この図書館には、何マイルにも及ぶ本が書架にきれいにならんでいる。外見上はそんなに悪い状態には見えない。しかし、本を開くと、沢山の本が劣化して脆くなっており、ぺ一ジが欠け落ちてしまう。過去150年の知的記録が、消失の危機に曝されている……。」
 これではスロー・ファイヤーと言うより、文化喪失の核戦争だ。
 ニューヨークに来てみて、謎は解けないものの、調査結果の比較・分析は正しかったことがわかった。一歩は前進というところ。あとは、謎の犯人をつきとめるのみ。
 と、ファイトは燃やすが、視界はゼロ。ホシの見当が、皆目つかない。


5. ホシの手がかり?

 10月下旬のある朝、あまりの息苦しさで目が覚めた。住まいはコロンビア大学の古い宿舎、階下からゴトンガタンと音がする。
 その音で、様子がわかった。ゴトンガタンは古いスチーム暖房機の奏でる音色。大陸性気候のニューヨークに急に寒波が押し寄せてきて、暖房が入り始めたのだ。そのため部屋が熱くなるとともに空気が乾燥してしまい、息苦しくなってしまったというわけ。
 探偵団は一昔前に、モントリオール(カナダ)に住んでいたことがある。そこでも最初の冬の到来時に、同じ苦しみと驚きを味わった。その時の経験を生かして、窓を少し開け、バス・タブに水を張り、タオルを濡らして洗濯紐にかけ、ようやくフーと息がつけるようになって……、はっと、気がついた。そうだ、これだ、暖房だ! これが犯人だ! 眠っていた探偵団の灰色の脳細胞が、急に目覚める。
 アメリカにあって、日本にないもの。あるいは、その逆に日本にあってアメリカにないもの --- 環境条件に関連して言えば、「暖房」こそは、それに該当するおそらくは唯一のものだ。最近でこそ、日本でも、集中暖房、空調が当たり前になってきているが、少し前までは、決してそうではなかった。
 一方、アメリカでは、アメリカ的快適さとはこのこととばかり、既にこの百年、暖房なしでは過ごせない生活を営んできている。図書館にしても、勿論、そうだ。閲覧室は無論のこと、全面開架の書庫も暖房完備、冬も人間にとっては快適であることこの上ない。
 これだ! これが、ホシだ! 暖房こそがスロー・ファイヤーの謎を解く鍵だ。これなら、何故、夏に気温の高くなるアメリカの南部だけでなく、高緯度に位置するイリノイやシラキュース、あるいはトロント(カナダ)でも同じスロー・ファイヤーの被害にさらされているかの説明もつく。自然の気候ではなく人為的な暖房こそが、蔵書大量劣化事件の共犯者に違いない。
 枯葉が乾燥すると、粉々になってしまう。植物性繊維からなる紙だって同じだ。紙の劣化のメカニズムがどんなに複雑でも、乾燥が紙の寿命に影響することは、素人にも直ぐわかる。
 ではどんな風に、乾燥即ち低湿は紙に影響を与えるか。そして一方、そもそも、冬の暖房使用中のアメリカの図書館の環境は、どうなっているか。探偵団も、俄然、調査に張り合いがでてきた。


6. 犯人追跡 !!

 冬の暖房使用中の北米の図書館の保管環境がどうなっているか、まず、文献で調べてみた。
 表2、図2、図3が資料漁りの最初の成果である。表2はアーサー・キンバリーらの論文から引いたもの。アーサー・キンバリーは1920〜30年代、紙資料の保存性について、様々な測定・研究を行った米国標準局の科学者だ。

表2 図書館書庫内の温湿度
  戸外
温度(°F)
戸外
湿度(%)
館内
温度(°F)
館内
湿度(%)
2月24日 50 42 59 38
2月25日 55 60 59 45
3月5日 40 57 60 30
3月8日 58 73 62 50
cf. Arthur E. Kimberly et al.


 これで見ると、館内温度は59°F(15℃)から6°F(17℃)と大変安定している。しかし、特に外気が下がる場合には(3月5日)、湿度が大きく低下する(この場合には57%から30%に)ことを示している。この点は、探偵団自身の温湿度測定でも確かめられた。
 図2は工一ル大学図書館(スターリング図書館)書庫の温湿度変化調査(1979年〜1980年)の結果、図3はコロンビア大学図書館(バトラー図書館)書庫の温湿度調査(1985年)の結果である。測定年は違うが、図2、図3とも冬の暖房使用時期 --- 時に寒さの厳しい12月〜3月 --- には、温度は24℃〜26℃くらいで安定しているが、相対湿度は20%以下にまで下がっている様子を示している。また、冬季暖房使用中の屋内の温度及び相対湿度は、週間単位ぐらいでみるとあまり変化せず、低値安定の傾向がうかがえる(勿論これは、建物の構造によるだろうからすべての図書館がそうだというのではない)。

図2 エール大学図書館書庫内の温湿度変化


(週毎。測定時期 1979. 10. 15 〜 1980. 9. 8)cf. Gay Walker et al.


図3 コロンビア大学図書館書庫内の温湿度変化


(週毎。測定時期 1985. 3. 4 〜 4. 15)cf. Adamitis, Vickey et al.


 普通、本の保管環境というと、我々は直ぐに温度と湿度のことを思い浮かべる。
 この内の温度は、既に表1にも示したとおり、それが高い程、化学反応が速くなり紙を劣化させる。しかし温度変化は、意外に思われるかも知れないが、変化それ自体は紙には特別の影響は与えない。にもかかわらず、それが重要視されるのは、温度が変化すると、相対湿度が変化してしまうからだ。
 相対湿度は、ある一定気温、気圧の下での飽和水蒸気量に対して実際含まれている水蒸気量の比を%で表したものであり、乾き具合、湿り具合の指標になる。
 承知の方が多いと思うが、紙は通常、6〜9%程度の水分を含んでいる。
 相対湿度が高いと大気中の水分が紙に入り込もうとし、逆に低いと紙中の水分が大気中に出ようとする。その関係を表したものが、図4のグラフである。
 本は紙、ボード、革、接着剤、綴じ糸等からなる複合的なオブジェだ。それぞれの構成素材が湿度の変化で、異なる方向に、異なる延び縮み方をする。つまり、湿度が変化すると、あたかもサイズの合わない服を着るように、本に緊張、無理が生ずる。湿度変化は、本の構造の敵だ。但し、今、我々が追っているのは本の構造の敵ではなく、紙自体の敵のほうた。低湿や湿度変化が紙自体にどんな影響を与えるか、が根本的問題だ。図5を見よう。

図4 紙パルプの水分吸収曲線 図5 紙の耐折強さと相対湿度の関係
cf. Wink, W. A cf. Carson, Frederick T.


 図5のグラフから、相対湿度が増すと、それにつれて紙の耐折強さも増すことがよくわかる。図5は縦方向で湿度65%の時、耐折強さが仮に1,200回である紙が、湿度15%になると100回近くにまで落ちてしまうことを表している(図5はそれを耐折強さの回数ではなく、パーセントの変化で示している)。
 低湿の環境は、図1にも見たように化学的には紙の長寿のために良いが、物理的には非常に悪い。しかし、これは我々の探している答にはならない。これでは、容疑者は容疑者のままだ。何故なら、湿度が上がれば紙の水分率も上がり、それに応じて耐折強さも増すからだ。乾燥状態の紙・本の取扱いは要注意だが、湿度があがれば、元の状態にもどる。問題は、乾燥状態にあることによって、あるいは繰り返し乾燥することによって、紙の耐折強さが非可逆的に落ちてしまうかどうか、だ。ところがこれもまた、難問だ。製紙研究の論文は山とあるが、紙の長期的保存性に関する論文はそれほど多くない。湿度と紙の保存性については、さらに少ない。そんな中で ---。
 アーサー・キンバリーは前述の論文のなかで言う。「紙に生成した酸は、環境の水分率(相対湿度)によって集中の度合いが異なる。酸は乾燥した環境においては脱水剤として働き、紙を文字どおり焼いて(burning)しまう。一方、湿った環境においては酸加水分解の動因として作用する。」
(13)


 キンバリーの論文は1931年、何と60年も前のもの。さすがはキンバリーだ。さて、ほかには、と探し続けるが見つからない。
 困り果てていたところに、友人の小泉徹氏(立教大学図書館)が「酸性紙問題をめぐって」と題する論文のなかで「古紙再生紙については、再湿潤、再乾燥が繰り返されるために繊維が角質化し繊維間結合の劣化(degration)が進むことが報告されている」
(14)

と書いているのが目に入った。小泉氏は、大江礼三郎教授(製紙学、東京農工大学)の論文に基づいて述べている。大江先生にはこれまでも、紙劣化のメカニズム、紙資料の保存性に関して度々教えていただいている。早速、大江先生の論文に目を通すとともに先生に直接訊ねることにした。
 先生の論文には、次のように書いてある。
 「紙は保存中に吸湿と脱湿を繰り返す。紙は水分を呼吸しているといえる。この時に繊維間の結合の生成、解離が行われ、紙が製造された直後とは違った繊維問結合分布をもつに至る。…… 繊維の湿潤、乾燥によって発生する繊維の変質は物理化学的、あるいは繊維構造的にかなり烈しいものである。すなわち、この場合の変化は、酸加水分解や酸化分解ではなく、繊維の、いわゆる角質化とそれに伴う形態的、組織的変化である。」
(15)


 うむ成程、紙の非可逆的、組織的変化が、湿潤・乾燥の繰返しによってもたらされるという指摘である。これも、大変重要だ。
 以下は喜び勇んで急ぎ、大江先生に訊ねた結果である。

◇---アメリカの図書館での資料の劣化は大変なもので、酸加水分解による劣化だけではとうてい説明できません。冬季の暖房による乾燥が相当、影響していると思われるのですが……。
大江---アメリカでの資料の劣化が深刻であること、特に高温というより乾燥による劣化が著しいことは、わたしどものこれまでの考え方と一致するようです。紙にとって酸性が悪いことは確かですが、それを酸加水分解によるものと短絡するのは当を得ていないと思います。私は、脱水による結合の増加が根源ではないかと考えています。
◇---脱水による結合の増加というものを、もう少し説明していただけませんか。
大江---ちょっと説明が難しくなるかも知れませんが、紙の中の水分は可塑剤的な役割をもっていて、紙の折曲げに対する強さに寄与しています。大気中の絶対湿度が低下しますと、紙の中の水分が失われますが、紙から水が離脱するとき、繊維間、繊維細胞壁内でセルロース相互に結合を生じさせます。そのため外力が作用するとき、応力の集中が起こり易くなります。結局、紙から水分がある限界以上に失われると、材料として非常に脆くなるわけです。
◇---それで、酸はどのように作用しますか。
大江---一紙が製造される時に添加された硫酸バンドから、アルミニウムが他の成分によって失われ硫酸が残ることは承知ですね。この硫酸は不揮発性ですので、紙の乾燥とともに濃縮され、強い脱水作用をもつようになります。
◇---酸は乾燥した環境においては、脱水剤として作用すると言うキンバリーの指摘は正しいと言えるわけですね。
大江---そうです。アメリカの図書館の人達がスロー・ファイヤーと言い始めた時は、象徴的、文学的な意味合いで使ったと思います。しかし、実はそれは科学的な意味においても的確だったのですよ。
◇---脱水は乾燥によって生じるのですか。それとも乾燥・湿潤の繰り返しによって生じるのですか。
大江---紙の劣化にとっては、両方とも大きく影響しますが、脱水に関しては低湿即ち乾燥がやはり問題でしょう。
 一もう一つお尋ねしますが、酸加水分解主犯説はどうなるでしょうか。
大江---これも、キンバリーの言うのが当を得ていると思います。高温高湿であれば、酸加水分解が主たる紙の劣化原因となることも考えられるでしょう。
◇---前に熱帯性気候のインドネシアで蔵書劣化の調査をしましたが、その結果 ---蔵書劣化の程度 --- はちょうどアメリカの場合と同じくらいのひどさでした。
大江---同じく紙が brittle (脆弱)と言っても、酸加水分解によるものと脱水によるものでは、随分、紙の劣化の様相が違うはずです。アメリカで劣化した紙とインドネシアで劣化した紙を比べてみると面白いでしょうね。

 さてこんな具合にキンバリーの指摘と大江先生の考察のおかげで、蔵書劣化の謎の犯人を追い詰めることができた。暖房による乾燥が、スロー・ファイヤーの主たる原因と考えてよい。
 イリノイ大学図書館での蔵書劣化調査は、スタンフォード大学図書館での調査方法を踏襲しているが、その結果は、1900年〜1949年刊行図書の劣化の比率は62%である。これはスタンフォード大学図書館における45%に比べてずっと高い数字だが、その理由も上記の考察に従えば理解可能となる。(17)
 即ち、メキシコ湾流による温暖の地カリフォルニア(スタンフォード大学の所在地)では、冬も暖房の必要が少ない。他方、大陸内部のイリノイでは、冬の寒さは厳しく図書館でも暖房中が続く。その結果、環境が乾燥することにより、紙資料の劣化が促進される。調査年に隔りもあり確かなことは言えないが、そんな解釈も有力だ。
 前にフロリダ州立大学図書館の保存部長エリック・ケスと話し合ったことがある。彼は言う。「うちでも蔵書の劣化調査を始めたんだけど、どうも、そんなに傷んでいないようだ。フロリダは暑いところだし、湿度も高い。ちょっと不思議だ。」
 早速そこで探偵団が、我が自慢の推理を披露したことはいうまでもない。常夏の国フロリダでは、暖房なんか必要ない。とすれば、暖房による図書館の乾燥も起こらない。答は簡単だ。
 エリックは初め、煙にまかれたような顔をしていたが、探偵団の言うことは理解してくれたようだった。


7. 小団円

 探偵団の推理は概ね正しかったといえる。但し、それを裏付けるデータは充分ではない。大江先生も、脱水説を確証できるデータは今のところないと言われる。もっとも、酸加水分解説を実証するデータもないらしい。容疑者は限りなくクロに近いが、まだクロとは言い切れない。しかし、まあ、あとの捜査は科学者にお願いして、探偵団としてはこの辺でひとまず、蔵書劣化の謎解きに区切りをつけるべきところだろう。
 再度、整理すると、酸が紙の、即ち図書館蔵書の最大の敵であることはまちがいない。しかし酸の作用は、一般に広く知られている酸加水分解によるよりも、環境の乾燥による酸の脱水作用の方がより影響が大きいようだ。少なくとも、現時点でのアメリカにおける蔵書のスロー・ファイヤーの最大の原因は、冬季の暖房だ。酸性紙蔵書が、暖房による乾燥・脱水によりスロー・ファイヤーの被害に遭遇している。アメリカは蔵書劣化の先進国だが、その元凶は冬の暖房であった。
 そう言えば思い出したが、文化財保存に携わる友人が話していた。「日本の博物館、美術館資料が1960年代頃から著しく傷み始めた。何百年も生き永らえてきた資料が、急速に劣化し始めたのだ。原因は、その頃から導入されはじめた空調らしい。空調それ自体が悪い訳ではない。問題は昼は空調を入れ、夜は節約のため切ることを繰り返していることだ。これだったら、従前どおり、何もしない --- 空調を導入しない --- がよほど良い。」
 怖きもの、汝の名は「文明」なり。適切な保管条件と快適な労働条件の名のもとにコレクションをいじめてきたのは、実は図書館員だったのだ。そう、スロー・ファイヤーの犯人は紙中の酸と、暖房を入れ空調を採用してきた図書館員である。とすれば、図書館員、文書館員が何をすべきか、何を考えるべきか、それは今や明らかであろう。
 図書館員、文書館員 --- 特にアメリカの --- が今一番注意しなければならないことは、湿度のコントロール、とりわけ、冬、暖房を入れる時に加湿などして、50%前後の相対湿度を維持することだ。保管条件の差が、例えば図1の違いとなって現われてくる。図1等の結果と様々な科学研究の力を借りて、図書館、文書館の蔵書が50年、100年先にどのようになっているかを、我々は「想像」できなくてはならない。
 本節のタイトルは小団円だが、それを大団円にするのは、一手に、図書館員、文書館員にかかっている。世界を脅威にさらしているスロー・ファイヤーの危機から文化を救済できるのは、誰よりも、適切な蔵書保管条件の維持につとめる図書館員、文書館員  --- 即ちあなた --- だ。


<注>

(1)本稿は、1988年5月開催の Graduate Training Programs in Conservation Conference(Buffalo, USA)での筆者ぺ一パー ”Book deterioration - A US-Japan comparison” に加筆したものである。主題について、大江礼三郎教授(東京農工大学 製紙学)、Paul Banks教授(コロンビア大学 資料保存学)より多くの教唆を得た。記して、謝意を表する。
(2)原題は Slowfires; On the preservation of the human records. アメリカ・フィルム・ファンデーション製作、1987年。
(3)日本における調査のデータは、下記の文献による。「紙の劣化と図書館資料の保存」<付録2> 図書館研究シリーズ 24, p.209〜232(1984)、奥澤美佐「慶應義塾大学研究・教育情報センターにおける資料の劣化状況調査」 論集・図書館学研究の歩み第5集、 p.117〜148(1985)、図書館紀要編集委員会「早稲田大学図書館における所蔵資料劣化度調査報告」 早稲田大学図書館紀要 第32号, p.1〜34(1990)。
エール大学図書館における保存調査の結果は下記の文献に報告されている。但し、ここで使用のデータは同図書館のゲイ・ウォーカー保存部長の提供による。
Walker, Gay, et al. ”The Yale survey:A large-scale surbey of book deterioration in the Yale University Library” College & Research Libraries, 46(2), p.111〜132(1985).
(4)Truswell, Richard W. ”Determining the optimal number of volumes for the 1ibrary's core collection”  Libri,  16(1),  p.49〜60(1996).
(5)Smith, Richard Daniel. ”The non-aqueous deacidification of paper and books” Doctoral dissertation, The University of Chicago, 1970.
(6)Hudson, F, Lyth.  Paper Technology,  2(1), p.21(1961).
(7)”History of the Barrow Lab, or the thirty years that revolutionized paper ”  Publishers' Weekly, 189(14), p.78, 80(1966).
(8)Kimberly, Arthur R., et al. ”A survey of storage conditions in libraries relative to the preservation of records” Miscellaneous Publication, Bureau of Standards, No.128, p.6(1931) (測定年は1931年と推測される).
(9)Walker, Gay,et al. op cit. p.125.
(10) Adamitis, Vicky, et al. ”Monitoring Project” (1985. Unpublished).
(11)Wink, W. A. ”The effect of relative humidity and temparature on paper properties”  Tappi, 44(6), p.112(1961).
 Aは放湿曲線、Bは吸湿曲線。部分的な放湿、吸湿の場合は、例えば D→C、あるいは E→Fの点線をたどると推定されている。
(12) Carson, Frederick T.  ”Effect of humidity on physical properties of paper” Circular of the National Bureau of Standards, C455, p.4 (1944).
(13) Kimberly, Arthur R., et al. op cit. p.4.
(14) 小泉徹「酸性紙問題をめぐって」 大学時報 33, p.51 (1984).
(15) 大江礼三郎「古紙の品質劣化に関する考察」 紙パルプ技術タイムス 27(9), p.1〜6 (1984)
(16) 大江礼三郎教授による数回のお話を安江の責任でまとめさせていただいた。
(17) Chrzastowski, Tina, et al. ”Library collection deterioration: A study at the University of Illinois at Urbana-Champaign”  College & Research Libraries, 50(5), p.582(1989)

(やすえあきお ・ 国立国会図書館逐次刊行物部長)

出典 : 『びぶろす』第41巻9号、10号 (1990)


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