1.
誰の目にも明らかなように、図書館はその起源以来、本を収集し、蓄積・保存することをその活動の基盤としてきた。それゆえ図書館の歴史は、一面においては本の保存の歴史と言えなくもない。本の保存の図書館史は、図書館の歴史と軌を一にしている。
けれども、例えば酸性紙問題(=紙中の酸による書籍用紙の劣化問題)をめぐって図書館における現実的な対応を検討しはじめてみると、それが単に本の保存の領域の新しい課題であるにとどまらず、従来の本の保存、資料保存の考え方の枠組ではとらえることのできない新しい、異質の、あるいは異次元の対応を迫られていることが理解されてくる。
小論では、そのように本の保存のパラダイムの変換を迫るものとしての、酸性紙問題の特質を考えてみたい。
2.
本の保存の観点からみた酸性紙問題の特質は何だろうか。
本の保存措置としてこれまで行われてきたことは、虫・かび・ねずみ対策・本を保護しまたその散逸を防ぐ製本、種々の補修、盗難・紛失防止、蔵書点検、書庫内保管条件の整備、本の取扱い上の注意等々、あるいは火災防止、災害の際のための配慮、さらには検閲や焚書、戦災・没収からの避難等である。これら多様な保存措置を、本を損傷させあるいは消滅させる要因の側から総括すると、虫やかび等の場合の生物的要因と、それら以外の場合の物理的要因に大別することができる。
酸性紙問題はこの点において異なる。既によく知られているように、酸性紙の劣化---酸加水分解という化学反応による紙の劣化は、化学的な要因による。酸性紙問題により、本の保存の科学に「化学」が欠くべからざる分野として登場することになった。
このことはそれ自体、例えば酸性紙問題の理解には化学の知識が必要であり、その解決には化学者の協力が不可欠であるというように、充分注目に値する事柄である。
が、私がここで言いたいのは、本の保存の領域において、生物、物理に化学という科学分野が追加されたということではない。そうではなく、生物的、物理的要因による本の保存問題は、その要因がいかに多様であろうとも、いわば「外敵」に向きあっている。一方、化学的要因による保存問題は、紙自ら、本自らの劣化という「内敵」に向きあう。その点が根本的に違うという点を指摘したいのである。この「内敵」に向きあうということが、酸性紙問題の、本の保存問題からみた最も重要な特質ではないかと思う。またその点において、従来の本の保存対策と質・次元において異なる面がでてくるのだと思う。
なぜなら、生物的、物理的要因による---つまり「外敵」による---本の被害は、虫に喰われた一冊の本のレベルから、火災によるある一つの図書館蔵書の焼失、あるいはまた戦災による一地方全体の文化遺産の破壊のレベルまで、その規模には差異があるが、それでも問題は局部的、局地的に発生する。それゆえこれらの損傷要因に対処する保存措置も、一般的には個々の図書館の単独の営為・努力に任せられている。
一方、酸という化学的要因、「内敵」による本の被害の場合はどうか。19世紀後半より木材パルプ紙が普及しはじめ、また同じ頃から紙中に酸を残すアラム=ロジン・サイズ剤(にじみどめ)が普及しはじめた。以来、現在に至るまでのほとんどすべての出版物が、この見えざる酸という「内敵」に蝕まれている。即ち、化学的要因による本の被害は、字義どおりに普遍的である。本の保存に関して、どの図書館にも共通する課題は多々あるが、この酸性紙問題に類する普遍的な課題はかつて一度もなかった。
米国において---そして日本においても---、寿命の短い酸性紙ではなく中性紙を使用して本を制作して欲しいと図書館人・関係者が出版社に要望し、それが効果をうみつつある。図書館がそれ独自では問題を解決することが不可能で、出版社や製紙メーカーの理解と協力を要請するという動向は、この化学的問題の普遍的な特質の一つの現われである。
過日、来日された米国の図書館人が次のように話されるのを聴いた。「日本でも本の中性紙化が進むことを切望する。米国でも、日本の、そして他の外国の出版物を収集し保存している。無論、日本でも事情は同じである。米国だけでなく、日本だけでなく、全世界の出版物が中性紙化されることが必要である。」この発言もまた、酸性紙問題の普遍的な特質、そして国際的な性格を言い当てている。
3.
酸性紙問題の普遍性という特質から導き出されてくる課題の一つに、保存措置を要求される本の量、蔵書の量の問題がある。現在に至るまでの一世紀以上にわたって、寿命の短い酸性紙による本の制作が続けてこられ、現在もまたそのような本が数多く出版されつつある。この蓄積されてきた、そして蓄積されつつある膨大な量の酸性紙蔵書をどのようにして保存していくか。
劣化の元凶である酸を紙中から除去する脱酸処理、しかもそれを大量に安価に行う大量脱酸処理法の開発は一つの光明である。しかしそれは本の救助の万能薬ではない。まず第一に、脱酸処理は紙の余命をのばすことに効果があるので、既に寿命のなくなった紙、余命の短い紙には効果がない。そして第二に、大量に処理するといっても、酸性紙蔵書の全体との対比でみれば処理を施される本は限定されざるを得ない。ましてやラミネーション等の脱酸処理にともなうべきていねいな補修作業を施しうる本はさらに小さく限定されざるを得ない。すべての図書館のすべての蔵書を、元の形のままで保存することは不可能であることが認識されつつある。
議論をあまり先走ってはいけないと思う。しかし、100年、200年、300年の単位で本の保存を考え、しかも現時点における積極的な対応が要請されていることを考えると、どうしても、何をどのように遺していくか、保存のプライオリティは何か、という問いが生まれてくる。それは、すべての図書館のすべての蔵書を遺すことは不可能であるという”断念”にもとづいている。
紙に印刷されている本の内容を、マイクロフォームや磁気ディスクに移し換える保存方法がある。「メディアはメッセージである」というマクルーハンの言葉を借用すれば、そこではメディアが変換するのでメッセージもまた幾分がは変質せざるを得ない。このメディアの移し換えにもある種の断念がつきまとっている。できれば元の紙・本の形態で遺したいものを、それが困難、不可能なので例えばマイクロ化する、ということが行われるからである。
しかし”断念”は必ずしも消極的な概念ではない。新聞のマイクロ化を一例としてとりあげてみても、元の形態では不可能であったものが、マイクロフォ_ムに移し換えられることではじめて遺すことが可能になった、と考えることができる。新聞の原形の大きさや色彩を断念することによって、それははじめて後世に遣るものとなった。そう発想すれば、メディアの移し換えは有力であるだけでなく、最も積極的な保存方法とみえてくる。
保存のプライオリティを設定しなければならない、あるいは保存のための選択を行わなければならないということも、すべての蔵書を遺すことが不可能であることにもとづいている。酸性紙問題の先進国米国では---ここで先進国というのは、酸性紙の被害が先進的に現われたという意味と、その被害に対する対策が早くから講じられてきたという意味の二重の意味でだが---、本の保存の図書館ネットワークが形成されつつある。資料の収集や整理の場面では早くからこの種のネットワークが形成されてきたが、それが本の保存の領域にも及んできたのである。”必要はネットワークの母”と言われているが、資料の保存に関しても図書館が分担協力しないでは正常に図書館を運営できないことが共通の理解となりつつある。具体的に言えば、A という図書館で a の分野の蔵書の保護・保存に努めるから、B の図書館では b の分野の保存に責任をもつ、といったことが行われるようになっているのである。その全体として何が遣るべきか、が議論され、また実際の計画として遂行されるようになってきている。
4.
保存を表現する英語の言葉に、コンサベーションとプリザベーションの二つの用語がある。この二つの用語の概念規定は各人各様であるが、私は次に掲げるデビッド・スタム(資料保存の専門家、ニューヨーク公共図書館副館長)の定義づけが適切であると考える。スタムによれば・「プリザベーションはより包括的な語で、資料およびその内容を存続させるための予防的方法、修復、移し換えの方法を対象とする。コンサベーションはプリザベーションの一部分であり、時間経過にともない物理的対象を存続させる意図をもつ」。
図書館界で従来行われてきた保存活動は、新聞のマイクロ化や復刻版の出版等の例外はあるものの、その主体はコンサベーションであったと思う。しかし今後については、コンサベーションという考えの枠組の中だけでは、要請されている対応を遂行することが不可能になってきていると思われる。小論では酸性紙問題に関連して、出版界との協同や移し換えやプライオリティの設定、保存ネットワークの形成等について触れてきたが、それぞれはことごとくコンサベーションの概念を越える活動である。それらの諸活動が正確にそして綿密に、保存のスコープの中で位置づけられなくてはならない。そしてそのスコープに応じた体制と努力が、図書館において整備され実行されることが必要である。コンサベーションのパラダイムから、コンサベーションをも包摂するプリザベーションのパラダイムヘと、そのあまりにも当然すぎる転換が充分に認識されなくてはならないと思われる。
ここでは酸性紙問題に焦点をしぼって述べてきたけれども、この問題に、もう一つ、例えば既に出版界にその姿を現わし、一定の分野ではその発展が大いに期待されている電子出版の、その新形態による出版物の保存---このおそらくは造りにくく、遺しにくい出版物を歴史に遺すという課題を重ねてみれば、新しいパラダイムが何を要請しているか、その視野がもう少し明瞭になるはずである。
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