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はじめに
脱酸性化技術というのは紙の資料の劣化の原因のひとつである酸性化から資料を救いだすという方法ですが、酸性化という、資料の劣化のひとつの原因への、ひとつの対処でしかない、といえるわけです。紙資料の劣化の原因には、酸性化だけでなく、ほかの原因がたくさんありますし、ひとつの原因が単独で資料を襲うことはなく、いくつかの原因が組み合わさって襲うわけですから、資料劣化への対処法もまた、いろいろな方法を組み合わせるしかありません。とはいえ、近代の紙を使った書籍や文書にとって、酸性化の問題とそれからの資料の救出は大きな課題でしたし、今後もそうであるのはまちがいありません。
このような脱酸性化技術は、最近になって突然あらわれたわけではなく、ほぼ半世紀におよぶ歴史があります。「脱酸性化技術の歴史--少量脱酸から大量脱酸へ」
という表題で、この技術があらわれる背景と、開発および発展の経過をかいつまんでお話します。
なお、このセミナー会場のパソコンは、常時インターネットにつながっており、みなさんの目のまえの大型スクリーンに映しだすことができます。職場やご自宅のパソコンがネットにつながるならば、あとからみなさんもここで紹介するページにアクセス可能ということです。そこでできるかぎり、ネット情報をもとにして、話をすすめていくことにしますが、デジタル化されていない関連文献もありますので、それは別個にご紹介していきます。
ウィリアム・バロウと金谷博雄
近代の紙資料がかかえる酸性化という問題と、問題の解決法を私たちに教えてくれた最初の人はウィリアム・バロウです。バロウのまえにも、たとえばカナダのシアホルツなどが、バロウの脱酸法の開発に影響をあたえる重要な パテント を取得しているのですが、その後のひろい範囲への影響を考えますと、1950年代後半から60年代にかけて、バロウが行ったいくつかの調査や脱酸性化技術の開発におよぶものはありません。
バロウ(1904-1967)はバージニア州立図書館のコンサーバター(書籍や文書の修復家)でした。彼の仕事については、安江明夫さんの 『 「永く残る本」 に向けて---ウィリアム・J・バローの研究開発』 (1) という委曲をつくした論文がありますので、詳しくはそれを読んでいただきたいのですが、バロウはコンサーバターとして紙を扱ううちに、ある時代を境にして、それ以前の本や文書の紙よりも、新しい資料の紙のほうが劣化がひどいことを発見します。そして原因を調べていくうちに、紙をつくる技術が近代化して、産業として自立していく1850年以降の紙が急速に劣化していくことをデータで立証します。1959年に発表された 『本の劣化-- 原因と対処:書籍用紙の耐久性に関する二つの調査』 (2) でバロウは、近代の製紙の技術、とりわけインクの 「にじみ止め」 につかわれる硫酸バンドがもたらす酸が書籍用紙の主要な劣化原因であり、これによって20世紀前半に出版された書籍は、手をこまねいていたならば、次の世紀---つまり今世紀です---に使用に耐えるのは、全体の3%しかなくなってしまうことをデータをもって示しました。
このバロウの調査結果はアメリカの図書館や文書館を震撼させました。眉にツバをつけた人もいます。くわしくは前述の安江さんの論文をお読みいただくことにして、ただアメリカの図書館界がこの問題に本格的な取り組みを始めるのは70年代の後半からです。いくつかの図書館で酸性劣化の調査が行われました。スタンフォード大学図書館、ニューヨーク公共図書館、シラキューズ大学図書館、アメリカ議会図書館などですが、代表的なのがエール大学図書館が1982年に行った36,500冊を対象にした 調査 です。アメリカ人文科学基金(NEH)からの資金的な援助を受けておこなわれたこの大規模な調査の結果は、アメリカの研究図書館の酸性紙問題をうきぼりにしました(3)。
この 図 の上の折れ線グラフがエール大学図書館の調査結果です。1810年から1970年までに出版された本を、決まった数だけランダム・サンプリングし、それぞれの年代の本がどのぐらいの比率で劣化しているかを調べました。山の頂上の1890年代の書籍群にいたっては、じつに9割近くが利用に問題があることになります。このランダム・サンプリングの結果を蔵書全体にあてはめてみますと、エール大学図書館の全蔵書数(調査時)770万冊のうち82.6%が酸性紙に印刷され、37.1%がふつうの利用は不可能なほどひどい劣化レベル(ブリットル)ということです。また、アメリカ議会図書館の予測ですと、議会図書館の蔵書は毎年、77,000冊ずつ ブリットル・レベル になっているということです。同じような調査はヨーロッパの図書館でも行われています。ドイツとイギリスの調査結果をアメリカのと比較した グラフ がありますが、ほとんどおなじような山のパターンと劣化率になっています。
ウィリアム・バロウの予測はけっして眉ツバではなかったということになるでしょう。近代の蔵書が、書庫の中で、ゆっくりとした火災、スロー・ファイヤー(slow fire) にみまわれていることになります。
「酸性紙問題」 と、一般には呼ばれるようになったこの問題を、わたしたち日本人にも教えてくれたのが金谷博雄です。金谷さんは巧みな手製本家として、そして日本書籍出版協会の職員として、この問題に着目し、卓越した眼力と翻訳力(というよりも日本語力)をもって1982年に 『本を残す---用紙の酸性問題資料集』 (4) を自前で出版します。これは、主としてアメリカでの酸性紙問題に関するさまざまな論文を抄訳したものでしたが、バロウの調査報告と同様に、いやそれ以上に、図書館だけではなく日本のマスコミや出版社、さらには製紙メーカーにまで影響を及ぼしました。わたしたちがいま、なにげなく使っているコピー用紙にまで---お手元の配付資料のもそうですが---中性紙化はすすんでいますが、金谷の仕事が引き金です。また、すでに日本の学術出版物の用紙の 7割以上が中性紙 になっています。
金谷さん自身の主要なエッセイは資料保存協議会の デジタルライブラリ で全文を読むことができます。そしてバロウの業績と金谷の業績をあわせて論じたのが、安江明夫さんの 「<変革の保存学>序説--- ウィリアム ・ バローと金谷博雄」 です。
このように、80年代の後半から日本でも、中性紙を使った書籍が出版されるようになってきたのですが、しかしながら、図書館や文書館にとっては、所蔵されている酸性用紙を使った書籍や文書の救出が残されているわけです。
少量脱酸から大量脱酸へ
というわけでようやく脱酸性化技術の話になります。近代の書籍や文書の用紙が、みずからが作り出す酸でみずからを滅ぼしてしまう。ならば、酸を除いてやればよいではないか。つまり酸が酸としてもつ機能を打ち消していく。これには、酸にアルカリを反応させる化学反応、すなわち中和反応をすればよいわけです。ただ、脱酸性化技術においては、中和だけでなく、少量のアルカリ物質を紙のなかに残してやることが必要だとされています。アルカリ・リザーブとかアルカリ・バッファとかいいますが、この少量のアルカリ物質が紙のなかにあることで、後々に資料を襲う酸、例えば大気中の亜硫酸化物(SOx) や窒素酸化物 (NOx) からも資料を守ってくれる。こういう二段がまえの方法が、脱酸性化技術ということになります。
バロウが、さきほどちょっと名前がでました製紙技術者のシアホルツのパテントをほとんど下敷きにして開発したのは、アルカリ土類金属であるカルシウムやマグネシウムを水に溶かして、この液のなかに酸性の資料を浸したり、液を塗ったり、吹きかけるという方法です。バロウが最初に開発したのは、資料をまず中和する槽と、アルカリ・リザーブをあたえる槽の二つの槽を使いますので、二槽法とも呼ばれる技術ですが、中和とリザーブがわかる最も基本的なプロセスですので、反応式で説明します。
まず最初に、一漕の中の水酸化カルシウムと、紙の中に生成した硫酸とが中和反応を起こし硫酸カルシウムという塩(えん)と水になります。
Ca(OH)2 + H2SO4 → CaSO4 + 2H2O
二漕目では炭酸水素カルシウムと水酸化カルシウムとが反応して、炭酸カルシウムと水になります。
Ca(OH)2 + Ca(HCO3)2 → 2CaCO3 + 2H2O
この炭酸カルシウムがアルカリバッファとして機能して、例えば大気中の亜硫酸ガを紙が吸い込んで、紙の水分によって硫酸になって襲ってきても、待ちかまえていて---
CaCO3 + H2SO4 → CaSO4 + CO2 + H2O
という反応で中和してしまう、というものです。
この方法はすぐに改良されて、水酸化マグネシウムを使って、ひとつの槽で中和とバッファ化が行えるようになります。以下のような反応式になります。
まず、二酸化炭素を溶かした水(ソーダ水)の中に炭酸マグネシウムを溶かして、炭酸水素マグネシウム液を作ります。
MgCO3 + CO2 + H2O → Mg(HCO3)2
この炭酸水素マグネシウムが、例えば硫酸と中和反応して、硫酸マグネシウムと水と二酸化炭素になります。
Mg(HCO3)2 + H2SO4 → MgSO4 + 2H2O + 2CO2
また、同じ炭酸水素マグネシウムは大気中の二酸化炭素と反応して、炭酸マグネシウムと二酸化炭素と水になります。
Mg(HCO3)2 + CO2 → MgCO3 + 2CO2 + H2O
この炭酸マグネシウムがアルカリ・バッファです。これが紙の中にあると---
MgCO3 + H2SO4 → MgSO4 + CO2 + H2O
というように機能して中和が起こるというわけです。
バロウとは別に、米国標準局も同じ水溶性の方法を開発していますが、これは水酸化マグネシウムと炭酸水素マグネシウムを使う方法です。バロウの二槽法などのいくつかの少量脱酸の方法は、わたしが80年代末に翻訳し、一部を当時のわたしどもの勉強会の会報に掲載したものがあります (5)。バロウ以降、1990年までの 脱酸性化技術に関する書誌 がありますので、詳しくはそちらを参照してください。また、あとからも名前がでてくるリチャード・スミスは、もっと手軽に、市販のソーダ水と水酸化マグネシウムをつかった方法を紹介しています。 スミスの水性脱酸法 はネットで入手できます。これは上述したバロウの一液での方法のうち、最初の炭酸ガスを溶かし込んだ水を作る行程を市販のソーダ水で置き換えたものです。アルカリ水溶液を使った少量脱酸技術は、近代の紙の資料の保存修復にかかわる世界中の工房に 普及して います。
アルカリ物質を水に溶かした液に資料を浸したり、塗ったりするわけですから、当然ながら、水で流れたり滲んだりするインクなどが使われている資料は除かれます。また、本のように紙の束が綴じられているモノはこれを解体して、一枚の平たい紙にしてから処理しなければならない。
そこでバロウも、本などを解体せずにいっぺんに脱酸できる方法を考えます。そしてガス状のアルカリのモルフォリンという物質を使った脱酸を開発するのですが、モルフォリンは毒性と不快な臭いの問題があって実用化はできませんでした。また、インドの国立公文書館のカスパリアという人が、アンモニア・ガスによる方法を、バロウと同時代に発表しています (6)。アルカリ・バッファが残らないことと、やはり臭いの問題があって、欧米では見向きもされなかった方法なのですが、インドでは1955年から採用され、現在も使われています。
このようにアルカリ水溶液を使った方法は、水に弱いインクなどへの影響もあるのですが、そういう資料はあらかじめ選び出して除いてしまったら、ある程度の量の資料をいっぺんに脱酸できる、というので開発されたのが、 ウィーン法 とよばれるオーストラリア国立図書館の方法や、 ネッシェン社の方法 です。ネッシェン社は日本ではフィルムプラストという粘着シートや粘着テープの商標でおなじみですが----。水を使うということで適用できる資料が限られれますし、処理する量を考えても、はたして大量脱酸といえるかどうかはわかりませんが。
溶媒の水が問題ならば、溶媒を他の液体、たとえばアルコールにしたらどうだろうか、と考えたのがイギリスの英国博物館のベインズ・コープです。水酸化バリウムというアルコールに溶けるアルカリ物質をメタノールにとかして、この液で中和とバッファ化をするというものです (7)。メタノールの毒性の問題などがあり、処理に注意が必要ですが、これも少量脱酸の方法として使用されています。次のような反応式になります。
Ba(OH)2 + H2SO4 → BaSO4 + 2H2O
Ba(OH)2 + CO2(大気中からの) → BaCO3 + H20
BaCO3 + H2SO4 → BaSO4 + CO2 + H2O
アルコールの他に、不活性のフロン液を主にして、なるべく事前の選別の負担を少なくする方法が、マグネシウム化合物(最初はマグネシウム・メトキシド、後にメトキシ・マグネシウム・メチル・カーボネート)を溶かしたウェイ・トウ法と呼ばれる方法です。これは、さきほどちょっと名前がでましたリチャード・スミスという人によって開発され (8)、実用化されました。ヘア・スプレーのような容器入りとしても企業化され、手軽に脱酸できる方法として販売されましたが、フロンの世界的な規制の問題が出てきまして見直しを迫られました。その後スミスは改良をかさね、環境に影響のない液にしたということです。やはり事前の資料の選別を必要としますが、ある程度の規模の資料をいっぺんに脱酸できる方法として、カナダの国立図書館が全面的に採用し、すでに20年ほどの歴史があります。現在の稼働状況を国立図書館の ホームページ が紹介しています。
このウェイトウ法を下敷きにしたのが---おそらくはスミスの基本特許の期限が切れたためでしょうが---フランスの国立図書館の サブレ法 です。また、おなじように、非水性の液体のなかでいっぺんに脱酸性する方法がドイツで開発され、 バッテル法 として実用化されています。
これまで、液体と気体(ガス)を用いた少量あるいは大量の脱酸方法を紹介しましたが、もうひとつ、固体のアルカリ物質の粒を紙の繊維のあいだに埋め込んでいく方法があります。 ブックキーパー法 と呼ばれるものです。アメリカの議会図書館が 正式契約をむすんで採用し 、ヨーロッパの図書館でも採用されています。酸化マグネシウムのこまかい粒を、ほとんど不活性の液体のなか浮遊させておいて、この液のなかに本をまるごと浸したり、液をスプレーで吹きつける方法です。液体を使うのだからウェイ・トウ法などとおなじ液相法かというと、ちょっと違います。ウェイ・トウ法やサブレ法はアルカリ物質がいちど液体のなかに溶けるのですが、ブックキーパー法は、サブミクロン単位の、非常に細かいとはいえ、粒の固体の酸化マグネシウムを使います。だから、固相法とでもいうしかないでしょう。ブックキーパー法は1998年にわたしが日本に紹介したのですが (9)、はたして、アルカリ・バッファはともかくも、紙の内部までの完全な中和ができるのかどうか、ずっと疑問でした。世界的に採用がすすんでいますし、 アメリカ議会図書館による評価 も発表されているのですが、バッテル法などと比べると、たとえば劣化が進行している紙にはどうなのかといった肝心のデータがでていないではないかという印象を受けます。化学的な効果についての疑問については アメリカの保存科学者の論文 があります。とはいえ、現在、もっとももてはやされている技術ではあります。
欧米の図書館等での大量脱酸技術の本格的な採用が始まったことにこたえるように、昨年(2000年)、この技術をテーマにした二つの大きなコンファレンスが アメリカ と ドイツ で開催されたことも紹介しておきます。
日本の大量脱酸性化技術
これまで海外の脱酸性化技術の話をしてきましたが、ようやく日本の大量脱酸技術の話になります。東京農工大の大江礼三郎先生の業績 (10)、その業績をひきつがれた岡山先生、日本ファイリングさん、そして忘れてならないのが日本の図書館人の協力ですが、ほぼ10年をかけて開発に漕ぎつけたのがドライアンモニア・エチレンオキサイド法(DAE法)とよばれるガスによる脱酸、世界初の気相法脱酸技術です。気相法大量脱酸技術はかつて、アメリカの議会図書館がジエチル亜鉛というアルカリ物質を使った DEZ方法 の開発に力を注いできたのですが、この物質自体の扱いがやっかいで、テストプラントの爆発事故などがあり、90年代中頃に中断してしまいました。もう一度復活することはまずないとおもいます。その意味で日本のDAE法は、世界初のガスによる大量脱酸法の実用化です。日本ファイリングが実用化技術を確立し、処理設備をつくり、現在市場開発がすすんでいる段階です。
わたしの個人的な評価になりますが、さまざまなデータ、たとばいろいろな用紙や、その他の材料への影響のデータもふくめて、日本のDAE法は---細部でまだ詰めなければならないことが残されているでしょうが---納得できる充分なものが提出されつつあると思います。DAE法については、 岡山先生の論文 がございますので、あわせてお読みください。また日本ファイリングからの資料 (11)もお手元にくばりました。長く開発と市場開拓にかかわってこられた同社の山本尚彦さんによりますと、今年末から来年にかけて、事例もふくめた紹介ができるのでは、とのことです。今回、世界中の脱酸性化に関するホームページをサーチしてみて、DAE法の紹介がほんのちょっと、それもわたしが英文で 寄稿 したものと、それを 下敷きにしたもの ぐらいしかないのはさびしいかぎりでした。さまざまな紙もふくめた影響のデータ、すでに劣化した資料への効果のデータもふくめて、きちんとしたデータが日本語で読めるようになるはずですから、そのネットでの公開と、できれば英語での世界への発信を日本ファイリングさんにおねがいしたいのです。
予防のための技術のひとつとして
先ほどの日米の劣化図書の グラフ をごらんください。エール大学図書館の折れ線グラフ、すでに劣化が相当にすすんでいる資料群ですが、これにたいして脱酸技術を適用してもほとんど、あるいはまったく意味がありません。数字でいいますと、エール大学図書館の蔵書の4割弱(調査時)は、脱酸の対象にはもはやならないということです。このことは、技術を採用するときのユーザーの常識になっています。酸性紙の脱酸性化というと、どうしてもこうした状態の資料、つまり、赤茶けて、紙力が落ちてしまったものを救えないかと思うでしょうし、そう思いたくなるのが人情です。日本の資料ですと、昭和の18年ぐらいから30年ぐらいの出版物とか文書、ワラ半紙の資料、新聞とかです。しかし、残念ながら、脱酸性化とは、まだ利用に十分に耐えるだけの 「強さ」 をもつ酸性の紙が、現在以上に酸性にならいないようにするための技術です。つまり、ひどい病気を治療する技術ではなく、ひどい病気にならないようにする予防の技術です。
冒頭にわたしは、「脱酸性化技術は、資料の劣化原因のひとつへの対処でしかなく、紙資料の劣化の原因はさまざまだから、資料劣化への対処法もまた、いろいろな方法を組み合わせていくしかない」 といいました。いったい、どうしてアメリカの、あるいはヨーロッパの研究図書館の蔵書は、これほど大規模な劣化に見舞われたのでしょうか。そこから、脱酸性化技術もふくめた 「対処策を組み合わせる」 ることを考えてみます。
なにゆえの大規模な劣化か? 酸性紙だから。それはそうでしょうが、もう一度 グラフ にもどります。下にある三つの折れ線グラフは、日本の国立国会図書館、慶應義塾大学図書館、早稲田大学図書館が、エールとほとんどおなじ手法をもちいて劣化調査をしたものです。エール大学図書館のと同じような山のかたちであるのにまず、注目してください。しかしながら、エールのような、というかアメリカの図書館の蔵書のような、4冊に1冊はつかえないというほどの劣化率ではないことに、もっと注目してください。全蔵書に敷衍しますと、せいぜい20冊に1冊ぐらいです。それでもひどいといえばひどいのですが、アメリカの図書館の劣化率には及びません。もし「酸性紙だから」という理由だけならば、アメリカも日本もおなじ劣化率になっていいはずですが、大きな差がある。
この差はどこから生まれたか? これを解明したのが 『スロー・ファイヤー探偵団の冒険』 です。それによると答えはセントラル・ヒーティング。特に冬の暖房、これがアメリカの蔵書のとびぬけた劣化率をもたらした元凶ということになります。詳しくは 『探偵団』 をどうぞ。
もうひとつ、オランダの国立図書館が行った劣化比較調査を紹介します。オランダ国立図書館は、ニューヨーク公共図書館が所蔵しマイクロ化後に廃棄するはずだったオランダの本、数百冊をひきとり、これを対象にした劣化状態の比較調査をしました。おなじ本(90冊)がオランダ国立図書館にもあったので、ニューヨークにずっとおかれていたのと、どこがどう違っているかを比較したわけです。その結果、ニューヨークにあった本の劣化が著しいことがわかりました。とくに用紙の周辺部の酸性度が高い。硫酸濃度も高い。元凶は大気汚染物質。ニューヨークの大気中の亜硫酸化物を紙が吸いこんで、それが変色と紙力の低下をもたらしていたことになります( Land om land: A Study on Identical Books, Stored Under Two Different Conditions. )。
酸性劣化を著しく促進させたのは保管環境でした。書庫の保管環境の管理は人為的なものですから、つまるところ 「図書館員さん、アンタがわるい!」 ということになってしまうのですが、逆にいうと、人為的なものならば人為的に改良できるのだから、改良すればよい。しないとどうなるのか。もしみなさんの図書館の書庫が冬に暖房されいてヒトには快適だったとしたら、都市部の図書館で、開架式の棚がならんだ閲覧室の窓が開け放たれていたならば、酸性紙の蔵書はエール大学図書館なみに、あるいはニューヨーク公共図書館なみに、いずれはなるということでしょう。
保管環境を適切なものに整えていく、これは酸性紙資料にかぎらず、紙資料のすべてに必要なことです。適切な保管環境はどうあるべきか、このセミナーでも、東京芸術大学の 稲葉政満先生のお話 をうかがいました。保管環境の整備も、脱酸性化技術がそうであるように、資料を今以上に悪い状態にしないための予防的な技術です。この二つは組み合わせて導入するべきです。
ブリットル・ブックへの対応---なにを、なにゆえに
とはいえ、適切な環境管理ができるようになったとしても、「触れなば折れん」 というレベル、すでにブリットル・レベルに達してしまっている資料は、いったいどうしたらいいでしょうか?
現物が貴重でかけがえがなく、どうしても現物でなければならない情報が盛られていて、現物へのアクセスが度重なり、しかも 「いたみ」 がひどいというのならば、なんとか現物として永らえる手だてが必要です。酸に侵されたブリットルな資料は、多少の効果はあるとしても、脱酸性化だけでは救えません。ブリットル、つまり紙力が極端になくなっているのですから、紙力を補強してやらねばならない。紙力強化技術(paper strengthning)が必要です。これにもさまざまな方法があるのですが、そのひとつの方法であるペーパー・スプリット、一枚の紙を二つに剥いで、あいだに丈夫な紙をはさんで、ふたたび貼りあわせるという技術があります。日本では 「間剥ぎ(あいはぎ)」 という名前で、表具の世界では知られています。かつて厳島神社の平家納経の一部の修理にも使われたということです (12)。それを連続自動化した技術がドイツで実用化されました。旧東ドイツの国立図書館の修復部門が東西ドイツの合併を機に独立して ZFB という民間会社を作りましたが、ここで実際に稼働しています。対象はいまのところは新聞資料のみです。岡山先生から、ビデオでのご紹介があります。
ペーパー・スプリットがどこまで効果的かは別にして、そもそも、ブリットル・レベルの資料のすべてを、現物としてアクセス可能な状態にすることは可能か、また必要なのか。もし、その紙のうえに盛られた情報こそ第一に重要である(大半の資料がそうなのでしょうが)というのならば、情報だけを別の媒体に救いだす、たとえばマイクロフィルム化がもっとも順当な方策になるでしょう。
では、代替するとして、その後にブリットルな資料をどうするか。廃棄するというのも選択肢のひとつでしょうが(さきほどのニューヨーク公共図書館のオランダ本はそのはずでした)、紙力強化技術は、マス・コンサベーションのテーマの一つで、 世界中で開発 がすすめられていますので、その見通しがつくのをまつというのも選択肢のひとつだとおもいます。利用はマイクロなどにたより、現物へのアクセスをできるだけ制限して、手をつけずに保存容器にいれて、安定した保管環境においておくという方法もあります。「いまは全部をいっぺんにやらない」、「いまは効果がはっきりしている技術をつかってモノとして延命し、後事を次の人たちに託す」 というのはけっして責任逃れではないと、わたしはおもいます。とりわけ一品ものの公文書資料、さまざまな用紙とインク等のイメージ材料が使われている資料への大量脱酸処置は、事前選別が可能であったとしても、手間もふくめた膨大なコストがかかることを考えれば、慎重にならざるをえないでしょう。公文書への大量脱酸については昨年(2000年)のアメリカ国立公文書館(NARA)主催の大量脱酸に関するコンファレンスで、 同公文書館の考え方 が発表されていますので参考にしてください。
ブリットルな資料への対応をしめす二つのホームページを紹介して、わたしの話を終わります。まず、アメリカの例です。アメリカ人文科学基金(NEH)のホームページの ブリットル・ブック・プログラム。全米の研究図書館の保有するブリットル・ブックを対象にしたマイクロ化計画で、1989年から2009年までに300万冊をマイクロフィルム化しようというものです。これ以上の劣化は考えられない”超”ブリットルな本の写真が掲載されています。さすがは酸性劣化の先進国です。このプログラムでは1999年までに86万冊のマイクロ化が終了しているとのことですが、マイクロフィルム化へのNEHの資金投入が当初ほどの額ではなくなっため(現在は年間1,800万ドルぐらい)、当初計画どおりに達成されるのか危ぶまれてはいます。1996年から、NEH全体の予算が40%も削減されたことにもよるのですが、マイクロ化のような 「伝統的」 な方法よりもデジタル関連アイテムに資金を投入するという昨今のながれが反映していることはまちがいありません。ただ、ブリットル・ブック300万冊という数とコンテンツがはたして妥当だったかどうか。また、これも昨今の流れで、マイクロフィルムとデジタルを共にという 「ハイブリッドな保存」 が喧伝されていますが、資金的な裏付けがあってのことなのか。デジタル情報の保存には、マイクロどころではない莫大な資金が必要になるわけですから。アメリカの場合、議会図書館の大量脱酸開発プロジェクトもそうでしたが、やることがおおざっぱな印象はぬぐえません。
もうひとつはオランダの、これも国としての資料保存計画に組み込まれたブリットル・ブックへの対応です。 メタモルフォーゼ と名づけられたこの計画は、1840年から1950年にオランダで刊行された書籍60万冊、雑誌30万冊、新聞5千タイトル、そして手稿も含めた文書類約200万点を対象にしたものです。目録作成・マイクロフィルム化・安寧な保管---この三つを柱にしています。目録化された資料は、マイクロフィルムで撮影され、原本は廃棄せずに中性の封筒もしくは箱にいれられ、保管環境がととのえられた書庫に収納されます。利用は原則としてマイクロのみ。マイクロ化された資料の目録データはそのままEROMM(European system for the input and retrieval of descriptions of microforms)のデータベースへ、つまりヨーロッパ全域をカバーするマイクロフィルム・データベースに登録される。同一資料への二重のマイクロ化は無駄ですから、ほかの図書館などが自分のところの資料をマイクロ化しようとするときには、まずEROMMにアクセスして、もしほかのところでマイクロ化が終了しているのならば、そこからデュープを入手します。ちなみにデジタル化についてはオランダは慎重です。マイクロフィルムが、適切な保管環境であれば、200年は情報が保存できるのにくらべ、デジタルはいまだはっきりしない、というのが理由です。
くりかえしますが、劣化の原因はさまざまで、それらが組み合わさって資料を襲うのだから、対処もいくつかの方法を組み合わせるしかありません。その意味では、たとえばこのオランダのやり方が、ブリットル資料への対処として理にかなっているのではないかとおもうのですが、なによりも、どの技術をどう使ってというまえに、「なにを、なにゆえに残すのか」、そこのところをしっかりと考えている、という印象を受けました。資料保存とは、じつは、技術の問題ではない。金谷さんはそれをくりかえし言いましたが、このセミナーの第2回のテーマもそれでした。 安江さん と、沖縄県立公文書館の 富永一也さん のセミナーでの講演の記録を最後に紹介しておきます。
注
(1) 安江明夫:「永く残る本」 に向けて--ウイリアム・J・バローの研究開発(前)(後), (科学技術文献サービス 66-67, 1983)
(2) W. J. Barrow Research Laboratory. Permanence/Durability of the Book: a Two-Year Research Program. Richmond, Va., 1963.
(3) Gay Walker, Jane Greenfield, John Fox and Jeffrey S. Simonoff, "The
Yale Survey: A Large-Scale Study of Book Deterioration in the Yale University
Library," College & Research Libraries 46: 111-132, March 1985.
(4) かなやひろたか訳編 『本を残す --- 用紙の酸性問題資料集』 (かなや工房 1982)
(5) W.J. バロウ修復所(木部徹・鈴木英治訳) : バロウ二槽式脱酸法, コデックス通信 13, 1989/9 (コデックス会 1989)他
(6) Kathpalia,Y. Conservation and Restoration of Archival Materials. UNESCO, 1973
(7) Baynes-Cope, A. D. "Non-Aqueous Deacidification of Documents," Restaurator 1 (1): 2-9 (1969).
(8) Smith, Richard D. Nonaqueous Deacidification of Paper and Books. Ph.D. dissertation, University of Chicago, 1970
(9)(木部徹)新脱酸技術の実用化へ --- ブックキーパー法が登場, CAP : 本の保存のための海外ニューズ月報 Vol.2 / No.8 (CAP編集室 1988)
(10) 大江礼三郎著 『保存図書の酸性化対策に関する研究(昭和60・61年度科学研究費補助金総合研究 (A) 研究報告書)』 (1987)
(11) 日本ファイリング編 『乾式アンモニア・酸化エチレン法<DAE法>による紙資料の大量脱酸処理』(日本ファイリング 2000)
(12) 宇佐見直八:顔料の剥落防止について、山本元著・宇佐見直八監修 『増補改訂 〓具の栞』(芸艸堂 1984)所収 【〓は「ころも扁に表」、読みは「ひょう」】
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