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スタッフのチカラ

『ゆずり葉』 目次

ちよかず
千善一君へ

   金谷博雄


  ぼくが小学校を終えてから何年がたつのだろう。子供をもたないぼくが君を毎週一回この工房に呼んで、君が勉強をするのを見はじめて丸三年になる。君はもう小学校六年だ。最近は時々ぼくをからかったりするほどだから、君はもう立派な大人だと思う。この工房のことだって、これじゃただの物置じゃないか、もう少し片づけなよ、なんてぼくをしかりつけるほどだ。でも、工房というのはぼくの心のなかにあるもので、いいものを作る場所のことなんだ。そして君だっていままで、かなや工房のちゃんとした一員だったのだ、とぼくは思っている。

 この秋、君が学校からいただいた二番目の教科書に、ぼくはあの「ゆずり葉」の詩を発見してずいぶんなつかしい思いにかられた。ぼくの場合は埼玉県北部の、たしか一学年で十二組もあった大きな小学校で、校庭には古い樹木がいっぱいあり、校門を入ったところにはゆずり葉の木が何本かあった。木には皆名札がつけてあったから、最終学年でこの詩を習うより前に、ぼくたちは自然にゆずり葉の木を知っていた。だからこの詩を教室で読んだ時、ぼくは何だかすごく親しい人にあったようにうれしく、詩が身体にしみ透って行くような感じがした。それは今でも思い出すことができる。

 そんなわけでぼくは小学校には必ずゆずり葉の木があるものと思い、生徒は六年になると必ず「ゆずり葉」の詩を読ませられるものと考えていた。だがこの間人に聞いてみたら、意外なことにそうでない学校や、この詩をのせていない教科書もあるらしい。ぼくの年代に近い人でも「まったく習わなかった」という人が、結構多いのだ。そんな時は、急にその人がぼくから遠のいたような気がするものだ。今は修学旅行にお米持参では行かないだろうが、ぼくたちの時は手ぬぐいなどで作った袋にお米をつめて行った者と、そんなことがあろうとは夢にも知らなかった者とのふた通りがあった。もちろん、それはぼくらがどんな地域に住んでいたかによる。大人になっていろいろな地域の人と知り合ってはじめてその違いを教え合い、大笑いをするのだが、そんな時にもふとおたがいの体験の差異の大きさに気がついて驚く。ぼくの女房(女房というのは「女性の方の工房」を縮めた言葉だ。お母さんに聞いてごらん)などは、「ゆずり葉」を知らなかったし、お米を持って行くのはキャンプのことだとしか考えられない部類だった。

 さて、君の教科書にその詩を見つけて、ふたりで声に出して読んだ時のことだ。どうも今のぼくには、その後半がいけなかった。「輝ける大都会も-----」あたりからだ。参ったね、「読みきれないほどの書物」だって。それを君たちにゆずるために大人たちは「一生懸命に造っています」だって。これはまずいよ----ゆずれるものなんか----荒野なんだからね、何にしろ-----。

 それで、ぼくは『本を残す』のことを君に話したのだ。酸性の紙は五十年ぐらいで役にたたなくなってしまうということを。それに比べここにある手すき和紙は自然からの贈物で、千年も残るのだと。昨年の初夏にぼくが訳した『アメリカ出版界の意識』の底本(もとの本)は機械で作った洋紙だけど、酸性ではないから何百年かの寿命があるということなども言った。君は大人だから、「紙がぼろぼろになるなっていい所に、先生よく気がついたねえ」などとおだててくれた。(そう言っておいて、「また、間違いの本を売りつけているんでしょ」と、誤訳におののく人の心をぐさりと刺すのも忘れていない。) それでも、「それじゃ、この記念切手もだめなんじゃないの」なんて、惜しげもなくぼくを教育してくれるのだから、君には文句を言えない。「酸性いっぱいのボンド糊なんかも同じだよね。」

 この『本を残す』の八頁(下段)にはこう書いてある。「故ウィリアム・バロウは、一九五九年にこう言っている。一九〇〇年から一九三九年の間に出版された本の四〇%がたいへんに傷んでおり、それらはただふつうに扱われたとして一九八三年までには使いものにならなくなるだろうと-----。」この文章を、一九〇〇年にお生まれの方(たとえば京都の寿岳文章先生)の立場で読みなおしてごらん。すると、先生は今年八十三歳だが、生まれてから三十九歳までにできた本の四割が今や本の用をなさなくなっている、ということなのだ。三十九歳なんて、君は自分の年齢の三倍もの大きな数字だと思うだろうが、実は、ぼくはこの一月にその三十九歳になるのさ。

 「もう一度ゆずり葉の木の下に立って、ゆずり葉を見る時」-----それがぼくには来てしまったのだ。

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  ゆずり葉                河井酔茗

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わってふるい葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって------。

子供たちよ
お前たちは何を欲しがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽の廻る限り
ゆずられるものは絶えません

輝ける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど----。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでしょう。

『ゆずり葉(一)』(1983年1月発行)、p.1-4から。

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