スタッフのチカラ

「貴重書は白手袋を着けて」という誤解

2008年09月19日蜂谷伊代訳

キャスリーン・A・ベイカー (Cathleen A. Baker) 紙及び書籍のコンサベーションコンサルタント、教育者、研究者
ランディ・シルバーマン (Randy Silverman) ユタ大学図書館資料保存課長

 

原文は “Misperceptions about White Gloves,” International Preservation News (No.37, December 2005, p.4-9)による。版元の International Federation of Library Associations and Institutions (IFLA) Core Activity on Preservation and Conservation (PAC) の許可を得て全訳する。

はじめに

なんとなく気が重い、いまひとつしっくりこない、いらいらする—これは歯医者への通院時の様子ではない。貴重で希少な書籍や文書を閲覧する時は白手袋を着用するのが当然としている特別資料閲覧室を訪ねた際に感じることを正直に表したものだ。以下では、蔵書の取り扱いをやっかいなものにする(すなわち白手袋を着用する)ことで導きだされる傷みにスポットを当て、かけがえのない蔵書が汚れることを防ぐための善意の努力が、どのような結果を生み出すのかについて考えてみたい。そして、手袋着用よりも、日常的に手洗いを励行し、きれいな素手で所蔵品を扱うことは、利用者の触覚的感応や触覚的認識が改善されるのはもちろん、汚損の拡がりを阻止するより効果的な手段であり推奨できることだと論じたい。

ただし、ここで対象としているのは歴史的な価値のある書物および紙媒体文書である。写真のポジ・ネガ、スライド等は対象外である。また、立体物(とりわけ変色してしまった金属の)も除外される。こうしたものは取り扱いに関してそれぞれ固有の注意すべきことがらがあり、それぞれの分野における専門家によって論じられるべきであるからだ。

 

神話の背景

「不潔な手で書物を取り扱ってはならない。また、手袋を着用したままの取り扱いも、デリケートな書籍にとっては同様に害となる。しばしば怠られがちである が、美しい挿絵入り書物のページを繰る際、閲覧者には手袋を外すようにと要求しなければならない。」(Kroeger 1903, 320)

 

不思議に思ったことはないだろうか、アーカイブや図書館の希少な資料を読むに際して、なにゆえに手袋の着用が義務づけられようになったのだろうかと? 歴史的な、あるいは芸術的な価値があるコレクションを「保存する」ことを意図したこの方針は、コレクションにとっては、ためになるよりはむしろ害になるであろう。利用者や特別資料の担当職員が希少な書物や文書を取り扱う際には、手の汚れや皮脂が付着して紙媒体のコレクションに損害を与えるのを回避するために、白い綿手袋を着用すべきだという、もはや制度化された主張には、本質的に欠陥がある。なぜなら、手袋は生身の汚れた人の手と同程度に、容易に対象物を汚損するからである。綿手袋は内側も外側も極度に吸収性が高い。徹底的に清潔にした閲覧室内ですら、手袋が汚れを吸着し、その汚れを書物のページ表面に移す可能性が多々存在する。机や椅子の表面には、掃除の際に使われた洗剤や光沢剤が残っているかもしれない。ウレタン発泡プラスチック製の書物の架台や、汚れよけのために机を覆う布カバーには、革装幀本の革が劣化して生じる赤茶けた粉塵が付着していく。化粧品、スキンクリーム、そして皮脂は、手袋の指で鼻を軽くかいた際にも手袋の外面に移りうる。綿手袋は閲覧者の手さえ清潔に保つ助けにもならないかもしれないのだ。

手袋の外面に蓄積する汚れに加え、手を覆う結果生ずる温もりがエクリン腺からの汗の分泌を促進し(Hurley 2001)、それにより引き起こされた湿気は多孔質の布地を通じ運ばれ、手袋が汚れを引き寄せ、吸収し、取り扱っている紙に汚れを移す可能性を増大させる。更に、Jens Glastrupが綿からの抽出物から断定したように、手袋の原繊維である綿は脂肪とアルカンを含んでおり(Glastrup 1997)、予防具としては理想に程遠いものである。

汗とは大部分が水分で構成(99.0-99.5%)された弱酸性の液体である。残りの溶質はほぼ均等に、無機塩と有機物に分けられる(Hurley 2001, 71-72)。ところが、皮脂を分泌する脂腺は掌には存在しないため(Botek and Lookingbill 2001, 87-94)、コレクションへの皮脂の直接的転移は、通常の取扱いにおいて問題とならない。

日常的に行われている素手での紙の取扱いは化学的に紙を劣化させるという、良く普及した信心があるのだが、我々の調査によっては、この考え方を支持するどのような科学的証拠も見出されなかった。この主題に最も関連ある言及は、『写真上の指紋』と題された論説だった。その中でKlaus HendricksとRutiger Krall(1993)は、指紋が銀画像に損傷を与えうるのは、汗中の塩分、特に塩化ナトリウムがゼラチン層に万が一浸透してしまった場合である、と述べている。紙表面は大抵ゼラチン(または他のサイジング剤)の層により保護されているため、塩化ナトリウムはゼラチン層直下のセルロースと相互反応を起こすに先立って、ゼラチンという障壁を通り抜けなければならず、またセルロースの腐食可能性は銀のそれほど大きいわけではない。HendriksとKrallが明らかにしたように銀腐食反応に必要な別の要素は酸素であるが、書物として綴じられた紙もアーカイブ用フォルダーや箱に保管された紙片も、高レベルの濃度の酸素に長期に渡り曝されるようなことはありえない、と主張することもできよう。

ロチェスター工科大学イメージ・パーマネンス・インスティチュート(IPI)のDouglas Nishimuraは鉄鋼産業界が行った腐食試験に参加した際のHendriksとKrallの研究報告書での実験を紹介している。20名の被験者がポリ塩化ビニル手袋を5~10分間、手を汗ばませるために着用後、手袋は取り外され、素手となった各々の被験者は一片の鋼鉄に触れるという実験である。Nishimuraは、「‘手袋での汗’試験の後、数名の被験者が鋼鉄板を腐食させた」と報告している(1997)。その後参加者は非イオン性界面活性剤と大量の水で手を洗浄したが、その状態で金属を腐食させるに足る発汗量を有したのは、冗談に‘ラスター’(錆男)と命名された一人だけだった(Nishimura 1997)。この実験は、手を十分に洗い流した後では大部分の人々は通常の条件下で紙に損害を与えるほどの汗を付けてはいないことを実証している。また、この実験で激しく発汗した5%の被験者、Marion Sulzbergerがいみじくも名付けた‘皮膚のスプリンクラー装置’(Hurley 2001, 47)への唯一効果的な防御策は、ビニルもしくはラテックス製の通気性の無い手袋だった。

しかしながら手袋使用に関する論議には、いますこしやっかいな問題がある。手袋によりコレクションの保護は十分になされているという思いこみがあるために、現行の閲覧規定には、利用者への望ましい取扱い説明が盛り込まれることはほとんどない—このことである。仮に、利用者とコレクション間の効果的な予防壁を綿手袋が提供するとしても、手袋の使用により、手というものは一度覆われれば‘安全な’道具に変わるのだという錯覚が助長される。実のところ、手袋の着用は取扱いのミスにより脆弱な物を物理的に損壊する可能性を増大するものだ。手袋で覆われて鈍くなった指の触覚をもっては取り扱うのが遥かに難しくなる極薄または劣化して壊れやすくなっている紙にとってはとりわけそうである。手袋の使用によってではなく、取り扱いの注意点や、お手本を示すことによって、コレクションへのリスク削減のための処置が講じられなければならないのではないか。

 

衛生的、という錯覚

「子供たちは本に手を触れるのを許される前に、手が清潔であることを示すよう求められるべきであり、これを促進するためにも手洗い場は必要不可欠である。」(Dousman 1896, 408)

 

しっくりと手に馴染まないにしろ、綿手袋を着用することによって閲覧室においては衛生が保たれると思うのも結構だろう。だが、忘れていることがある。そもそも、特別資料室にいまある希少本や文書は、ここに来るまでまったく人の手が触れることはなかったのだろうか? もちろん、まるで反対である。機械がとって代わるある時代まで製本はほとんどが多くの人が手作業で行っていた。製本工という ‘粗野な大衆’が、いまはこれほど恭しく隔離されている書籍や文書に直接触れるのがごくあたりまえだった。また昔の製紙工場では、紙の分類人と選別人(一般的には低賃金女性労働者)は、ボロ布をリサイクルして作られるできたての手漉き紙、本や文書の紙の原形を取り扱う最初の人々の一人だった。これらの紙は工場で寝かされた後、帖や連単位で数えられ、倉庫係によって包まれ、印刷業者や文房具商に送られる。

印刷所で紙は伝統的に、印刷用に一枚一枚印刷機にかけられる前に、印刷所見習い工(通常10代の少年)によって湿らせられ、片面が刷られたら裏刷りを待つ紙の山に戻される。印刷が完了すると、紙は吊るし乾かされる。点検、校合、そして製本や流通に向けて紙を折る作業は、紙への人間による接触を大いに必要とする。一方で、本屋の顧客は、最初の読者から、周り回って最後の本の所有者も含めて、1ページごと幾度も本文を閲読したかもしれない。その後では、所有者の家族や友人が、単なるお楽しみなのか必要があってかは別にして、気楽な気持ちで、本を扱う視覚的・触覚的喜びを味わいたいがために、ページをぱらぱらとめくったかもしれない。

手書きの文書に関して言えば、愛する人への手紙は、まっさらな紙を手で強く押さえながら書いたものかもしれない。法律事務所や会社の事務員は、書状を書き、記録を残し、決して衛生的とは言えない環境で台帳に勘定を記録した(‘衛生’という用語は1848年までは活字となって現れなかった)。これらの手紙や文書の受取人は、時に蝋燭の明かりで、または覆いのない、しばしば煙る炎の白熱光のもとでそれらを読み、そして折りたたむか、ことによると木製の押入れ、机の引き出し、もしくは箪笥の引き出しに保管するため、リボンできちんとまとめただろう。

けれども、こうしたことが世界中で何百年にも渡り広く行われていたにもかかわらず、人の皮膚との度重なる接触がひどく紙を劣化させたという証拠はほとんどない。確かに数世紀前の筆写本や文書(特に羊皮紙製のもの)には、汚れていて、特にその周辺は明らかに度々手を触れられたためという典型例がある。しかし、それらが作られた時代―木炭や石炭の炎、煤けた部屋、脂で汚れた壁、蝋燭の明かり等、全て衛生上は理想的とはいえないあれこれが折り重なっている時代を経ていまに在ることを思えば、衛生的でなければという期待はいささか譲歩できるのではあるまいか。いや、なによりも、時代を超えて惜しみなく手を触れられてきたことは確実だが、それでもなお物理的な劣化の痕跡のほとんど見られない、ほぼ新品に近い数百年前の本や手紙、文書の実例は非常に多くあるのである。大気汚染、熱、光、不十分な保管状態、度重なる折り曲げ、そして紙の内部の酸といったものの破壊力に比べて、紙が生身の手で触れられることにより引き起こされる劣化とはわずかなものである。実際、紙の上にくっきりと指紋が付けられたのを最後に見たのはいつだったか、あなたは思い出せますか?

特別資料保管庫といった環境管理された状況に隔離される前は、書物や文書は素手での閲読の影響を受けず、事実上無傷で生き延びていた。これは、紙の表面のサイズ剤が、手で触れるぐらいの影響ならば緩和できる役目を果たしてきたことが大きい。そういう資料が”文化遺産”として現在、在る。そして、特別コレクションの中の大半の紙の、将来触れられるであろう回数は、それが我々の‘文化遺産’の一部となる以前に受けた回数に比べれば微々たるものである。

 

 

鈍感な白手袋

「汚れた指で本に触れないこと。手洗いせよ。」(L. Lyon 1990, 350)

 

人間は皆、周囲を取り巻くものを判断し理解するために五感、すなわち視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚を持っている。これらの感覚は通常、我々の直接的知覚に豊かさや深みを加えるため連携して働くのだが、紙媒体の資料を閲覧するにあたって最も重要なのは、おそらく視覚と触覚である。紙のモノとしての性質と触覚の相互作用は、「手にした」証拠が喚起する本質的情報と補足的情報を得ようとする練達の観察者の手助けをする。

手袋を使うことで触覚が遮られれば、紙、ひいては資料全体を認知しにくくなる。紙の厚みや柔軟性を感じる能力も鈍らせる。何枚の紙に触れているかが手袋をしてわかるだろうか? 触覚が損なわれた時にはうっかり2~3ページ同時にめくってしまうのはよくあることであり、手にしっくりしない綿手袋の不便な拘束により動きを妨げられ、ページを持ち上げたり、めくろうとして、ぎこちなく探ることになる。もし手袋が紙の小さな凹凸の上のほつれ―劣化した脆い縁や破れ目―を捕えたら、意図しない損傷に必然的に至る。素手でならば、こんなことは起こらずに取り扱えるのにとわかっているだけに、余計苛立たしい。

人間の触覚をよりよく理解するために行われた最近の研究だが、被験者の指先をパソコンのマウスのような滑動する物体に置かせる実験がある。被験者は物体を見ることなく、その滑走する物体が水平に凸状の上を移動しているのか、凹状の上を移動しているのか判断するよう求められる。その物体が触れている面が実際隆起しているか、窪んでいるか、平らであるかにかかわらず、惰性により、被験者は滑動する物体が隆起の上を移動していると常に知覚してしまう。触覚が鈍らされた際の三次元的特長の正確な知覚に関するこの研究は、ここでの論議と深く関係する。なぜならば、この研究で示されたような空間的関係の誤認は、人々が手袋を着用する時、紙に損傷を与え易くなることを説明するからである。

手袋は、モノとしての紙に対するほぼ全ての知覚を鈍らせ、その表面の特徴についての情報、例えば網目漉き紙か簾の目紙かといった質感や、もっと大事な紙の状態を覆い隠してしまう。こうしたものは皮膚でじかに触ることにより直覚的に伝わるものだろう。だからこそ、書物や紙媒体の一枚物を扱うコンサバターは、処置前の状態調査でも処置中でも手袋を着用しないのである。

 

 

神話はいつから?

「フランスの学識ある書籍収集家であったニコラ・フーケは、かつては白手袋の山を書斎の前室に備えた。貴重な書物が汚れないようにと、来客は敷居を跨ぐのを許されなかったが、跨ぐ時でも、手袋をせずに生身の手で本に触れることを許さなかった。当時は本を傷めないように細かく配慮することを求めるような時代ではなかったのである。フーケのご託宣に敬意を払っていたある図書館司書は、人々が本に対して今よりもっと注意を払うようにさせる何らかの方法があれば良いのにと、しばしば願わずにいられなかった。」(Spofford 1905, 116)

 

Nishimuraによれば(2003)、貴重な資料を保存するための布地手袋の着用はおそらく19世紀に指紋がネガを損なうのを避けようとした写真家たちによって始められた。しかしながら、書物や文書のコンサベーションに関する早い時期の論文を精査してみても手袋への言及は無い。その使用は、そして図書館・文書館による間違いなく広範な容認は、比較的最近に始まったということが分かる。1986年に開催されたIFLA(国際図書館連盟)のウィーン大会において、もHendriksは発表の中で「スリーブで保護されていないネガやポジ・フィルムはリントレス(毛羽立たない)・コットンかナイロン製の手袋を必ず付けて取り扱われるべきである」(Hendriks 1987,63)と勧告したが、同じ大会で図書館資料の保護と取り扱いに関する大変綿密な発表を行った米国議会図書館のMerrily Smithは、手袋使用には何も言及していない(Smith 1987)。

ということは、綿手袋の使用は20世紀最後のほんの10年ほどの間に、つまり20年にも満たない慣行として特別資料閲覧室に広まったと思われる。おそらくは図書館やアーカイブに用品を納める業者がカタログの中で、手袋の使用を慣行として提示し、カタログをいち早く手にすることができる善意のキュレーターがそれを真に受け、推進されたといった展開なのだろう。だが多くのキュレーターが、利用者が閲覧室で手袋を使用することの効能を依然として墨守している一方で、そうではないキュレーターもいる。1999年10月の特別コレクションに関連するウェブサイトでのオンライン・ディスカッションにおいては、貴重書を預かる一部のキュレーターは手袋使用に強く反対していることが明らかになった。挑戦的といってよい、こんな言葉で。

 

「私は、写真に触れる時を除き、いかなる種類の手袋を着用することも閲覧者に求めません。良識ある利用者を動きにくくさせ、触覚を鈍らせるような不適切なものを着用させる道理はどこにあるのでしょうか。」(Antonetti,1999)

「閲覧者は手袋をはめていない時よりはめているときの方がずっと、本やその他の印刷物を破損しがちです。」(Belanger,1999)

「綿手袋は脆弱な紙をひっかけ破いてしまう可能性があります。また、素手を清潔に保つのははるかに容易です。私たちは資料を取り扱う前に手を洗うよう全ての利用者に求め、また我々自身もそうしているのだと分かってもらうようにしています。」(Fuller,1999)

 

喪失と獲得

[手紙に触れた時、テニスンの言うように、死者が過去から私に触れたと感じた。「まだ緑の残る落葉/死者の気高い手紙」に没頭した。](Byatt 1991,115)

 

マイクロフィルムや写真複写、デジタル画像といった代用物が、利用頻度が著しいコレクションの現物保護のために活用される一方で、触れている資料から隔絶させる衣類を付けるように利用者には求める—この黙契は、実は単純な資料保存の問題にとどまらない。西洋社会が過去の歴史的な手や機械を使った工芸仕事から漸進的に離脱するにつれて、モノが作り出す文化の独特な属性に対する閲覧者の審美的基本姿勢は、いよいよ萎縮していく。資料との物理的結び付きを維持することは、利用者とキュレーター双方に、その資料を生み出し、活用してきた文化の豊かさを解する心を持ち続ける助けとなる。歴史的「材料」はその物質性を通じて、過去との繋がりを暗黙のうちに符号化してくれるのである。

デジタル環境の増大によって、ほんの5年前には広く行われていた文化財に直接アクセスする機会の大半が失われ、ホンモノに代わるヴァーチャルな文化財に置き換えられている。だが、図書館員やアーキビストが、自分たちは利用者に仕えるのだと公言するのならば、「システム的にそうなっていますので」などと制限するのではなく、利用者の経験を豊かにすることによって生じる利益をよく考慮し、利用者と文化遺産を文字通り「接触」させるべきである。

 

ではどうすれば?

「手洗所が与えられた。図書館に入る前に、少年たちは初めは手を洗うことを強制され、次には手を洗うよう促された。『促された』と表現するのは、少年たちはすぐに、課されたものとみなすのをやめ、恩恵―むしろ大いなる楽しみ―とみなすようになったからである。」(Anonymous 1890,260)

 

資料を閲覧する前と、その後も定期的に、手が汚れたと感じた時には普通の石鹸と水で手を洗う。10~15秒ほど両手をよくこすり合わせて皮膚の表面全てを磨き、よくすすいで乾かす (Abouzelof 1999)。このように利用者に求めるのは、希少な書物や文書コレクションを保護するうえで適切な要求である。これを慣習的に行えば、閲覧室でも自宅でも、人々は手の皮膚の清潔さと適切なコレクション・ケアとを、同等なものと考えるようになるのではないだろうか。この単純な方法が効果的であると証明するには、手を洗うための便利な手段が閲覧室で提供される必要がある。明らかな解決法は、閲覧室に入室する前、理想としては閲覧室近くに設置された洗面所で手を洗うよう利用者に求めることである。

だが、いちいち手を洗うというのは面倒だというのならば、次の妥協案を示したい。閲覧室を離れることなく手を清潔にする手段として、安い使い捨ての、アルコールを含浸させたペーパータオルを利用者に供給することである。個別包装の濡れナプキンが1,000個単位、1個2セント以下で購入できる。スキン・ローションを含む製品を選ぶのは避けるべきだが、いろいろな製品が用意されていて、例えばGallery of the Modern Moist Towelette Collectingといったウェブサイトで一覧できる。ここれからは閲覧室の「手洗い場」は、個別包装された濡れナプキンが入った容れものと、ナプキンで手に残った湿気を拭う紙タオルと、ナプキンと紙タオルを捨てるくずかごを指すことになるかもしれない。職員もこの公共の「手洗い場」を利用していることを積極的に示せば、閲覧者が習慣的に「手洗いする」ことの必要性がいや増すだろう。

もしも、貴重資料の保護のためにではなく、職員や閲覧者の保護のために手袋を着用する必要があるならばパウダーのついていないぴったりしたビニル手袋を薦める。ラテックス・ゴム製の手袋もあるが、ラテックス・アレルギーの利用者もいるからだ。触覚は鈍るが、黴やひどく汚損したものに触れる際には、衛生安全問題の方を重視せねばならない。最後に、手書きや印刷文字部分の上を不用意になぞると、手袋を着用しようがしまいが、脆弱な紙や、剥がれ落ちそうな媒材(没食インク等の類)、隆起した刷り(凹版印刷画など)、擦れやすい媒材(パステルなど)といったものに不当な損害を与えるということを警告しておきたい。

 

おわりに

図書館・アーカイブの貴重な資料を取り扱う際に、当然のように利用者にも職員にも手袋を使用するように義務付けてきたこの方針は再検討を要する。ずっと利用されてきた多くの書物を見ても解るように、特別にではなく、ごく日常的な取り扱いであっても紙に化学的損傷を与えないことは明白なように思われる。確かにコンサバターは、自身の手を保護する必要のある数少ない場合を除けば、本や一枚物の資料に処置を施す時に手袋をはめない。綿手袋とは、汗や汚れから、資料を守ることを保証するものではないどころか、物理的損傷を加える可能性を増すものである。いたるところで見受けられる手洗いの方針を実行することは、手袋の使用に代わる、理にかなった効果的な選択肢であり、それはコンサバターがモノを取り扱う前に行う規範的儀礼に習ったものである。

 

 

著者の経歴

キャスリーン・ベイカー博士は現在、アメリカ保存修復学会基金(Foundation of the American Institute for Conservation)の支援を受け、Samuel H. Kress Conservation Publication Fellowshipとして『19世紀アメリカの紙:科学技術、材料、特徴、そしてコンサベーション』(Nineteenth-Century American Paper: Technologies, Materials, Characteristics, and Conservation)を執筆中である。1993年に退職するまで15年間、ニューヨーク州立大学バッファロー分校のArt Conservation Departmentでペーパー・コンサベーションを教えていた。2000年に『ダード・ハンター 業績と伝記』(By His Own Labor: The Biography of Dard Hunter)を刊行している。アメリカ国内そして文化財保存修復研究国際センター(ICCROM)でコンサベーションとプリザベーションのワークショップを数多く行なってきた。2000年にアラバマ州立大学においてブック・アーツで修士号を、マス・コミュニケーションで博士号を取得している。

ランディ・シルバーマンは、ユタ大学図書館の資料保存部門長。26年間、ブック・コンサベーションの分野で仕事をしてきた。図書館学の博士号を持つ。専門分野は、書物史と一般蔵書のコンサベーション。これまでに48の論文と、資料保存について書かれた本の章の著者である。アメリカ、カナダ、チェコ、イギリス、フランス、イタリア、トリニダードで開催された関連学会や会議で120の報告をしている。またアリゾナ、コロラド、ネバダ、ニューメキシコ、オレゴン、ユタの各州の大学等で図書館学プログラムの修士レベルを教えている。 University of Utah Marriott Library 295 South 1500 East Salt Lake City, Utah 84112-0860 USA Tel: + 0 1 801-585-6782 E-mail: randy.silverman@library.utah.edu

 

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