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マンハッタン計画を記した被曝ノートはどのように「保存」されたか –アメリカ国立公文書館などの取り組み (抄訳)

2011年04月22日島田要 抄訳

以下はAATS(American Association for the Advancement of Science)の 雑誌 Science( Vol. 263, No. 5144 , Jan. 14, 1994)が掲載した Christopher Anderson による DOE Finds Physics Archives May Be Too Hot To Handleの抄訳である。戦時中のアメリカのマンハッタン計画(原爆開発)に関わった複数の科学者が残した膨大な記録(ノート、文書)、モノ資料など、放射能に汚染された資料はどのように「保存」処置が施されたかを述べている。

いま読むうえでの留意点がある。上述のように発表年は1994年。チェルノブイリ原発事故(1986年4月)の約10年後ではあるが、いまから遡ればすでに15年前の文献である。当時にあっても、比較的高い濃度の被曝物への扱いは最高のレベルで行われてはいるのだろうが、低濃度被曝物の取扱いは、現在(2010年)ならばいくつもの留保が必要かもしれない。例えば、手袋着用程度で放射線を発しているモノを扱えるものだろうか—というような。

であるにしても、類似の文献や事例が見当たらない今、ここで述べられている除染そしてコンテンツの移し替え(マイクロ化)というプロセスは、今後、二次汚染が予想される被曝資料を取扱わねばならない場合のヒントになるかもしれない。そういう事態にならないことを祈りつつ。

[2011/04/22 木部記]


イリノイ大学の物理学者アルバート・ワッテンバーグが昨年アメリカ国立公文書館のシカゴ分館に赴いたのは、厄介事を求めてという訳ではなかった。しかし、原子力物理学者エンリコ・フェルミやその同僚たちが、シカゴ大学のフットボールスタジアムの地下に原子炉を作るために使っていたモノを収めた箱から8インチの金属棒をやっと持ち上げることができた時点で、彼は何かがおかしいと分かった。「あれ程重い金属は一つしかない」と、1940年代にフェルミのチームの一員であったワッテンバーグは言う。「それはあきらかにウランだった」。

国の原子力開発史の始まりの記録。それを保存するに当たっての半世紀に及ぶ軽率さに、ワッテンバーグは文字通り指を触れていたのであった。核物質の試験・生産中に放射性核種によって汚染された何千ものモノ―実験ノート、機密文書、実験で使った器具・設備、その他—が、全く放射性にさらされていない普通の資料と一緒に、一般閲覧可能なファイルに保存されていた。

これらの資料による健康被害は少ない、放射能レベルは、「広報上のリスク」を有するが、「健康上のリスク」は有さないと、エネルギー省(DOE)記録管理部長メアリー・アン・ウォーレスは言う。とはいえ、その汚染は、DOE及び国立公文書館に大きな除染上の問題を突きつけている。

ワッテンバーグが見つけたウランの棒は、3cmの距離で1時間当たり約10ミリレムを放出していた。それは、平均的な背景放射線レベルの240倍程であるが、短時間被曝しただけでは、現実には危険ではない。そうであっても、ワッテンバーグが公文書館の職員にその棒について伝えると、彼らはそれらを速やかにアルゴンヌ国立研究所に返し、その他にも放射性の記録・モノがないか探し始めた。彼らの努力により、放射性物質により汚染されていると思われる何百冊もの実験ノートその他の記録が、いくつかのDOEの研究所でも発見された。汚染物の中には国の首都へと持ち込まれたものもあり、昨年、国立公文書館の職員が、マンハッタン計画の時代に由来する放射性化学物質の入った小瓶や、第一次世界大戦期のラジウムが塗布された物を見つけている。

ほとんどの汚染物質は、1940年代、1950年代、及び1960年代初頭のものであり、ワッテンバーグが言うには、この時代では、研究者がプルトニウムその他の様々な放射性物質を扱うのは珍しいことではなかった。そうして、彼らの手から放射性の埃がノートの表紙やページに落ちたかもしれない。厳重なセキュリティの故に、マンハッタン計画の科学者たちは、自分のノートをいつも手放さずにいなければならず、これが問題を増幅することとなった。

マンハッタン計画に参加したその他の研究所では、加速器を扱う物理学者が、自分の実験の詳細を記録したノートに放射性のターゲット–典型的なものは、粒子線が通過した金属ディスク–を貼り付けることが多かった。それらの放射性物質や器具が、時には、その後通常の用具と合わせて、研究所のアーカイブズへ移されることもあった。アルゴンヌ国立研究所の保健物理学者であるジョージ・モショーは、アーカイブズへ送られることになっている古いノートのページの染みに気付いたことを覚えている。「疑わしく見えたので、分析に出しました」と彼は思い出す。「それは、初めて作られたプルトニウム239の一部であると判明しました」。

核物質生産・処理施設–オハイオ州のファーナルド工場や、ワシントン州のハンフォード核廃棄物保留地等–には、非常に多くの放射能汚染された記録があると、ウォーレスは言う。しかし、その汚染されたモノという問題–DOEの予測によると、少なくとも1800立方フィートに達する汚染物–は、これらの工場などだけでなく、DOEのローレンス・バークリー研究所やブルックヘーブン研究所等の基礎研究施設や、トルーマン大統領図書館・アイゼンハワー大統領図書館(わずかに放射性のあるマンハッタン計画のモノを陳列している)にさえも及ぶものである。

アーネスト・ローレンスが1929年に4インチのサイクロトロンを組み立てて以来ずっと加速器を保有してきたバークリー研究所では、放射性の加速器ターゲットや化学物質を同定し記録する係に対する危険を減らす積極的な取り組みを行なってきた。記録係のロリ・ヘフナーが言うには、あるとき、記録係の職員は、較正器具に使われていた放射線源の箱に接触した後に、「自分たちが摂取したものを調べるために」健康検査を受けさせられたということである。検査では何ら問題は出なかったが、職員は今や線量計をつけ、古い記録を扱うときにはいつも予防措置をとっている。新しい研究所規則ではまた、放射能検査を経ないと加速器区域から記録を移すことができないとされている。

アメリカ国立公文書館の放射性のある記録についての話を聞いて二日後に、アルゴンヌ国立研究所の保健物理学の専門家たちは、ノートを検査する機器を完成させた。同名の台所用器具に似ていることから「ワッフル焼き器」と呼ばれるその機器は、二つの検知板の間にノートを挟みこんで、その放射線レベルを記録する。しかし、その機器での検査は、飽き飽きするほど単調な作業の繰り返しだった。というのも、ノート見開き二ページを検査するのに6秒かかるからである。6人の保健物理学技師のチームが、シカゴ分館が保有する1500冊程のノートを検査して、三分の一が汚染されていると結論するまで、2ヶ月かかった。そこで、責任者はいま、もっと自動化された方法を探している。「古いゼロックスのコピー機の中身を取り出して、改造することを考えています」と彼は言う。

放射性の重要記録を保存する通常の手順は、公共の利用のためにマイクロフィルムのコピーをとり、汚染された原本を放射性廃棄物として廃棄するというものである。例えば、ハンフォードの記録係は、マイクロフィルムを使って、汚染された可能性のある百万件以上の、放射性標本の化学分析記録を作成し、現物を検査する必要を避けている。放射線区域では、放射線防護スーツを着た技師が、マイクロフィルムカメラを使って、何箱もの汚染された可能性のある記録を公文書として扱われるフィルムのロールへと変換している。

しかし、DOEの基礎研究所でのほとんどの記録係は、そのような深刻な問題には直面しておらず、二、三の簡単な予防措置をとることで、健康上のリスクを回避することができると考えられている。「古い記録を見るときには、手袋を着けます」と、アルゴンヌ国立研究所のメアリー・ハイダー言う。「でも、怖くはありません」。

今月、DOEとアメリカ国立公文書館とは、タスクフォースを召集して、徹底的な目録作成を行い、歴史的重要性のない汚染ファイルの処分の仕方、汚染記録の隔離の仕方、及び重要な記録の除染の仕方あるいはその他の方法での保存の仕方を研究しようと考えている。タスクフォースは、特定の文書を保存する歴史的価値を、それらを扱う上での潜在的な健康上のリスクに対して秤にかけるであろうと思われるが、既にある一点については合意が存在している。すなわち、「歴史的記録の箱に手を突っ込んでウランの棒を引っ張り出すことが可能であると思うべきではない」ということである。

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