スタッフのチカラ

表紙は外れたままでよい— 貴重書の修復と資料保存 —-

1990年木部徹

お酒はぬるめの燗が良いという説は承伏しかねるが、表紙は外れたままで良い。図書館や文書館の資料としての貴重書の表紙は、外れたままで良いのである。いや、この際だから、もっと積極的に言ってしまおう、「外れたままのほうが良い」と。

外れた表紙は、いつかどこかにもぐりこんでしまって失くなってしまう恐れがある。そうだろう。ならば、本体といっしょに箱にでも入れておけば良いのではないですか。

表紙が外れてしまった状態では、読みにくい。そうかもしれない。しかし、その本が図書館の貴重書というのならば、満員の通勤電車のなかで読むとは考えられない。その貴重書を保有する図書館のしかるべき場所で、しかるべき作法により利用されるのが普通でしょう。ならば、利用者に貸し出すときに、この資料は表紙が外れています、しかるべき注意を払って利用し、現在の状態以上に傷みが広がらないように気をつけてくださいと言えば良い。

 

これで良いのではないか。なにか不都合がありますか?

 

いや、やっぱりね、表紙が外れているというのは具合いが悪い。本来、表紙というのは本体にしっかりと接続しているものでしょう。外れているものは元のように直すべきではないですか。

それそれ、それだ。その、元のように直すというやつが問題なのだ。長い間わたしたちは、資料保存とは修復であると思ってきた。だから、外れた表紙は再び本体につないできた。表紙が失くなっているときには、元のものになるべく近い材料を探しだしたりして元の表紙と同じようにこしらえていた。革製本の場合には、表紙の革に押された箔押し模様まで類似のものを創作していたこともあった。

「本の表紙」と言ってきたが、元のように直すという考え方は、本体の頁の虫食い穴でも破れでも同じことである。穴はふさぎ、破れはつなぐ。それも、あとからふさいだようにみせないこと、つないだようにみせないこと、そして元の通りになりましたというのが、図書館にとっての、資料に対する保存手当てという意味であり、修復家の勲章だった。こういう仕事が良い仕事だと思われてきたのである。いや、この事情は、全体として、現在でも変わらないのではないか。

だが、図書館や文書館の資料を対象にしたこういう修復処置に、いったいどんな意味があるのか。図書館や文書館の担当者と修復家の自己満足以上の意味があるのか?答え—「ない」。こういう修復は、ほとんどの場合、資料を「きれいにする」ということ以上の意味はないのである。つまり、カッコ良くするだけである。

カッコ悪いよりも、カッコ良いほうが良いのではないのですか?答え—「できるならばカッコ悪いほうが良い」。なぜか?(1)その資料がモノとして背負った書誌的な歴史がそのまま残るから。カッコ良くすることで、その歴史が無くなってしまうから。(2)カッコ良くしようとすると、時間とお金がかかるから。

 

もう一度、基本的なところから考えてみる。図書館や文書館における資料保存とは、その資料をいつでも利用できる状態にしておくということだ。利用と保存とは矛盾せず、本来の資料保存とは、むしろ利用を促進させるものであるべきだ。ここまでは、もはや異論はないだろう。

ここで問題になっている—というよりもわたしが勝手に問題にしているのだが—貴重書の保存でも同じであるが、いわゆる一般図書とか参考図書とか呼ばれているものと貴重書とでは、利用者の興味が向くところが違うことがある。前者は主として本文、その知的な情報が対象であるのに対して、貴重書は情報とともにオブジェとしての本そのものが対象だということがある(詳しく論じ出すときりがないので簡単にすませるが、ある資料が貴重か貴重でないかというのは、個々の図書館の性格によって決定される。村上春樹の『ノルウェイの森』の初版本は日本近代文学館にとっては貴重であり、オブジェとしての本という状態でも末永く保存しておくものなのだろうから、あの赤と緑のキンキラ・ジャケットごと保存するのが本当なのだろうが、普通の公共図書館にとってはそうではない。ジャケットは外されたり、その上からプラスチックのカバーをされたりして何度か貸し出され、それで傷めば、最新の版に買い換えたり廃棄したりすることだってある。あのキンキラ・ジャケットを拝みたいという利用者には、近代文学館に行ってくださいと言えば良いのである)。

さて、この際の利用である。すでに述べたように、貴重書が利用されるときには、利用者がファイブ・ミニを飲みながらということは、まずない。利用者にも相当に気を使ってもらって利用してもらうハズだ。そうでないならばそうするべきだ。一方で、保管や、図書館員としての取扱いの状況を考えてみる。一般図書とは違った、しかるべき注意が払われているハズだ。そうでないならばそうするべきだ(1)

このふたつ、注意して扱うこと(させること)と、保管状況を良くすること、これだけで大半の貴重書はそのまま保存できるのである。上記の(1)の書誌的な歴史も破壊されず、(2)の時間もお金もそれほどかけずに。

 

(1)をもう少し論じよう。目の前に表紙が外れた貴重書がある。本文の頁も虫食いがあるし破れている。綴じもガタガタである。こういう本を目の前にすると、ほとんどの図書館員はうろたえてしまう。「直さなくちゃ」と思ってしまう。また、まことにウィリアム・ブレイズが『書物の敵』に特別の一章を設けたごとく、製本家なる人種も問題だ。壊れた本をみると頬がゆるんできて、腕がムズムズしてきて、気がついたときは綴じ糸を切ってしまっているというヘンな病気を持っている。しかしである、もしそれを修復したとしてどうだというのだ。きれいにはなった。しかし、そのときに失ったものはないか、変えられたものはないか、こう考えて欲しい。

どれほど優れた修復家の手になっても、現物がみじんも変わらないということはないのである。そればかりではない、余計なモノ、本来の資料にはなかったモノが必ず加わる。ならばである、そのまま、表紙が外れたまま、虫食いも破れもそのまま、ガタついた綴じもそのまま、そっくりそのままにして、しっかりとした箱にでも収めて、利用者に最大限の注意を払ってもらい利用してもらえば良いではないか。

利用者にだって、保存に一役かってもらうべきなのだ。だって、利用させてもらうんだから、そのぐらいのことはやってもらわなくては。表紙をソーツと開いてもらう。頁をソーツとめくってもらう。唾つけちゃだめですよ、カビの原因にもなるから。メモは鉛筆でだけ。万年筆なんてとんでもないよ。

利用者の中にもいますね、箱をあけたら表紙が外れている本があって、開いたら虫食いがあって、破れていて、いったいオタクの図書館はこんな貴重なものをこのままにしておいて良いと思ってるんですか!責任者、出しなさい!!

責任者、出てくる。すみません。直したいのはやまやまなんですが、なにせ予算が……、なにせ人が……。

こういうやりとりが年中ある。かくして、良心的な図書館員は万年不定愁訴に悩むのだった(2)

だが、今日からは違うぞ。

責任者、出てくる。あのですね、たしかに表紙は外れてるし、虫食いもあるし、綴じもガタついてますよ。しかし、その本は、散逸しないように、全てが箱に収められています。さわると崩れてしまうような本文紙ではなく、注意してめくってもらえば読むことはできます。あなたがこの場で利用するのになにか不都合がありますか。わたしどもの役目は、この本が持つ歴史をそのまま残し、利用に供することです。もし、あなたのご希望どおりに直したら、その歴史が失われてしまうかもしれないんです。それに、この1冊の本をあなたのご希望どおりには直さないことで、わたしたちは他の10冊の本を救うことができるんです。どうぞ、最大限の注意を払い、あなた自身がこの本の歴史を破壊しないようにしながら存分に利用してください。

どうです、カッコ良いでしょう。

 

イギリスにロジャー・パウエル(Roger Powell)という人がいる。シドニー・コッカレル(Sidney Cockerell)という人と協力して、今日の書物のコンサベーションの基盤を据えた人だ。1906年に生まれたコッカレルは一昨年亡くなったが、1896年生まれのパウエルは、わたしがこの原稿を書いている現時点では健在である。

パウエルは西洋書物史の上でも重要な資料に対する保存手当てをいくつも手がけた人だ。「ケルズの書」「ダロウの書」「アーマーの書」「ディンマの書」などである。パウエルが作業の間に行った調査のおかげで、西洋の書物の初期の製本家たちが用いた方法や材料についてかなりの知識が広く知られるようになった。数多い調査結果の記録は活字になっている(3)

そのパウエルが1956年に行った仕事がある。英国では最も初期の製本として知られるヨハネの福音書、別名「ストニーハースト福音書」を対象にした仕事だ。この本は1104年に聖カスバートの墓から発見された小型の書物で、7世紀のものと推定されている。

パウエルはなにをしたか?なにもしなかったのである。「この類い稀なる唯一無二の文化遺産にはいかなる直接的な措置も施すべきではない」と強く主張した。そして、愛弟子のピーター・ウォーターズ(Peter Waters)と一緒に現物を目の前にして、この本の材料や製本法を徹底的に調べた。この調査報告と現物がそのまま残っているおかげで、わたしたちはいま、日本独特の製本であるといわれてきた綴葉装が別に独特のものでもなく、世界の製本技術史からみれば、コプト綴じの範ちゅうに入るものだなどということがわかるのである(4)。それはともかく、パウエルは「ストニーハーストの福音書」の修復はもちろん、いっさい現物に手をつけずにそのまま残すことを主張し、押し切った。優れた製本家の見識というものである。

 

(2)の時間とお金の問題に移る。5年ぐらい前の話だが、こんなことがあった。貴重書を保存している、ある機関を訪れた。そこは修復ではたしかに日本でもピカーの技能者を揃えているところである。責任者の人が言った。「ウチは貴重なものがゴロゴロあるが、これを全部直すのは今の人数でもあと500年ぐらいかかりますよ。ま、わたしの目の黒いうちは無理だね」。腕には自信はあるのだが、なにせ人手も予算もない。「しかたないやね」。その「しかたないやね」という言葉がなぜか自慢たらしく聞こえたのを、いまでも覚えている。

500年。なるほどそうだろう。こういうふうな直し方、つまり一品一品をていねいに繕っていったのでは、そのぐらいかかるだろうな。しかし、その5世紀の間は、資料は利用できないのだということを考えたことがあるのだろうか。利用不可能な図書館の資料なんて、もともと無いのと同じではないか。このヒトの目が黒かろうが白くなろうが知ったことではないが、その5世紀の間、そのまま放っておかれる膨大な資料の目が白くなるかもしれない責任は誰が負うのか……。

 

図書館や文書館での資料保存が急速にクローズアップされるようになった、その契機は、いわゆる酸性紙問題である。1850年代以降に製紙された紙を使った近代の資料は、ほとんどがこの内部の敵を持つと思って良いだろう。酸性紙問題が提起した課題は沢山あるのだが、「群としての資料の保存」もそうだ。群として崩壊していく酸性紙の資料をいかに救ってゆくかということだ。このことは、とりもなおさず、従来の資料保存の方策そのものを根本から見直す契機にもなった。一品料理的な方策では時間も人も金もかかりすぎて、とても対応できないのである。

「貴重書は違う」という考えは当たらない。なるほど、いわゆる酸性紙問題は、1850年代以降に製紙された紙を使った、とてつもない量の本に突出した問題ではある。しかし、群としての資料ということでは、一般図書であっても貴重書でも同じだろう。貴重書と呼はれるものが、図書館全体の蔵書の数からいえばいかに少量であっても、やはり群として存在することにかわりはない。そして、このひとつひとつに一品料理的な措置を行っていたら、大変な時間と金が必要になるのもまた明らかである。いかに対象が貴重書とはいえ、修復措置のために際限もなく金と時間を注げるなどということはありえないのだ。

 

前述したパウエルの愛弟子であるウォーターズという製本家は、1966年に起ったフィレンツェでの図書館災害の救助活動の先頭にたち指導したが、この後にアメリカ議会図書館に招かれ、今日の同図書館のコンサベーション部門をつくった。そして、貴重書に対する保存手当てにおいて革新的な考え方と技術を開発した。段階的な保存手当て(phased preservation/conservation)である。それは簡単にいえば —詳細はすでに何度も論じている(5)、とにかく手当ての第一段階として、対象となる全ての貴重書を保存用の簡単な箱(phased preservation box)に入れてしまうという措置である。どこが一体革新的なのかは、ここまで拙文を読んでこられた読者にはお分かりだろうが、まず、その資料がモノとして持つ情報が一切変えられることなく、ひとつの箱に収められることだ。そしてもうひとつ、金と時間が、一品料理的な修復措置と比べれば、はるかに少なくてすむということだ。

前者の意味についてはすでに述べたので、後者について少し具体的に述べよう。アメリカ議会図書館で段階的な保存手当てが初めて行われたのは1971年だが、最初のそれは一枚ものへの手当てを、それまでのラミネーション法(一種の裏打ち法)から、ポリエステルフィルムをつかったカプセル法へ転換することだった。現物にはいっさい手をつけずにそのままの状態でカプセルするというものだ。この考え方は、次の対象となった貴重書の保存にもそのまま活かされた。この貴重書群は16世紀から18世紀にかけて出版された約8,000冊のヨーロッパの法律書である。ウォーターズは次のように言う。

「このうちの2割が硬い芯材のヴェラム表紙のものだった。ひんぱんに利用されるというのではなく、以前に修復されたものも少ないコレクションである。しかし、大半の本はダメージがひどく、書庫の床に表紙や本文紙の破片が落ちているのを発見することも度々あった。表紙もひどく歪んでいた。乾燥したところに置かれていたためヴェラムが芯材から外れて反ってしまったためだ。サイズの違う本を一緒に立てて保管しておいたことからくる歪みもあった」。

さて、どうするか。「ざっと見積って、もしこれらに徹底した手当てを施したならば、48万時間、280年かかることになる」(6)。ウォーターズならずとも「こうした手当てを実行するのは全く非現実的だ」と言わざるをえない。あなたもそう思うでしょ?

しかし、実際にわたしたちの周囲で行われている貴重書への保存手当てというのは、こうした非現実的な手当てなのである。雀の涙のような予算をなんとかやりくりして、少しずつでも直しに出す。その一つあるいは二つは直った。良かった。だが、後ろを振り向けば、直さなければならない資料が山積みされている……。わたしが在籍している間はもちろん、在籍しなくなった後も、おそらくは(いや確実に)わたしの目が白くなったあとも、大半が放って置かれるのだろう……。 これでは不定愁訴にならないほうがおかしい。

 

不定愁訴になりたくなかったウォーターズはなにをしたか。なにもしなかった。現物にはいっさい手をつけずに(クリーニングや、ごく簡単な補修程度はしたが)、とにかく全部をそのままフェイズド・ボックスと名付けられた箱に入れてしまった。それでも3年かかったが、280年よりはかなり短期間のようにわたしには思われる。費用についてはウォーターズは触れていないが、一品料理的な直しよりもはるかに安くあげたことは明らかだ。箱に入れられた資料の大半はそのまま利用に供された。そして、並行して進めた資料ごとの保存状態の記録をもとに、どうしても現物に手をつけなければならないものに限って第2段階に進めた。自らが長であるコンサベーション部門に持込み、直した(6)

 

しつこいがもう一度言う、これでなにか利用に不都合があるのだろうか?

 

言わずもがなだが、わたしは図書館などの資料としての貴重書への物理的・化学的な手当て(いわゆる修復ではなく、保存手当ての三原則、可逆的・非破壊的・記録化を踏まえたコンサベーションという意味である)が不必要だといっているのではない。それこそ、わたし<たち>のこれからの本命の仕事だと思っている。そうした手当てを施さねばならない問題を内在している貴重書はあるし、利用状況というのはある。ここで詳しく論じるのは無理だが、前者については酸性で劣化していて、めくるそばから崩れてしまうようなもの、あるいはその可能性があるもの、虫食いや汚れがひどくて内容の理解に支障があるもの、カビなどの生物学的な要因やセロテープなどにより劣化が広がっていくもの等々である。後者は、原本を形態的に復元したものを展示することが必要だったり、紙自体はしっかりしているのだが、頁が完全に外れていて、そのまま利用するとバラバラになっていく、あるいは過去に再製本が行われ、それが書物の劣化が進行する直接の原因になっている等々という場合である、つづめていえば、今の状態では、どうあっても通常の利用に事欠き、劣化が進み、なおかつ現物として保存することが求められる本を対象にしたものだ。

しかし、いずれにしろ、そうした貴重書は少ないのである。わたしの乏しい経験からみても、一図書館に収められている貴重書全体の1割あるかないかである(そうした手当てが必要か否かを最後に決するのは、修復家やコンサペーターではなく、図書館員や文書館員であることもついでに言っておきたい)。それはともかく、書物に対するこうした専門的な保存手当ては、コンサベーション・バインディング(conservation binding)と呼ばれるものだ。前述したパウエルとコッカレルがその基盤を作り、ウォーターズや、弟弟子であるクリストファー・クラークソン (Christpher Clarkson)やアンソニー・ケインズ(Anthony Cains)などが確立したものだが、コンサベーション・バインディングという言葉は1966年までは存在していなかった。それまであった考え方と技術はレストレーション(restoration)、修復である。1966年のフィレンツェの水害でやられた貴重な書物を救出する作業のなかで、コンサベーション・バインディングという考え方と言葉が生まれ、技術が確立し、やがて世界に広まっていった。

しかし、技術が浸透するにつれて、本来の考え方が忘れられていった。単なる改装製本にすぎないにもかかわらず、その技術だけがやたらと適用され、コンサベーション・バインディングとしてまかり通ってきた傾向がないわけではない。有体に言えば、修復家と称する製本好きの腕試しと自慢話の材料にされてしまったという類のものだ。よくよく思いだしてほしい、一体これまで、だれが、もはや修復されてしまった貴重書の製本装丁を研究したいとして訪れたか?「表紙は外れたままでよい」という視点を、ここでもまた欠いていると言わざるをえない状況が、日本だけでなく、世界的にある。だが、このことは別のところでキッチリと論じるつもりだ。

ともあれ、現在の日本の図書館や文書館の貴重書(これも言わずもがなだが、和漢書も含めてである)の大半が、修復措置を施さなくても、いや、むしろ施さない方が「保存」できるのである。この視点をしっかりと定めない限り、貴重書をあずかる図書館員や文書館員の万年不定愁訴が解消に向かうことはないだろう。

 

 

(1)木村八重子「ある司書の古典籍とのかかわり—保存に関する不定愁訴」(1989年4月21日開催の資料保存研究会での講演と配付資料)によると、利用者と図書館員に対する「資料の扱い方」の教育が極めて大事なことがわかる。木村氏は東京都立中央図書館で古典籍を担当する司書であるが、利用者のひどい扱いかたの例として「蜜柑を食べていた助教授、本を下敷きにして書類に押印した図書館学の教授、歯みがきや牛乳を閲覧机に平気で置く人、本で屋根を葺く人、脂ぎった手でべったりと地図を押さえてみる外国人、本の上に物を置く人」があげられ、一方で職員は「本の上でメモする職員、同じ机での飲食、秩に入れるときに折れた丁・はがれかけた題箋・はみ出している丁・くせのついた小口などに注意せず、また小口をきちんと揃えずに入れてしまう→そのあとで本がどうなるか気を配らない、陽があたっても平気、古典籍の上に重い洋装本を置く、袋の折り目や印刷面に無頓着にさわる、書庫にしまう時、まわりの乱れた本には目もくれない」という例があげられている。

(2)上記の配付資料を参照。たった一枚の資料だが、見るだけで不定愁訴になりそうだ。

(3) Powel, R. ”The Book of Kells, The Book of Durrow”(1956)、”Lichfield St. Chads Gospel”(1965), ”Rebinding of An 8 Century Vellum Binding”(1974)など。

(4)綴葉装とコプト級じ云々は筆者(木部)の私見であり、パウエルが言っているわけではない。

(5)コデックス通信の13号に掲載した「保存箱を棺桶にしないために」などを参照。下記の文献も。

(6)Waters, P.” Phased Preservation; A Philosophical Concept and Practical Approach to preservation” Special Libraries (Winter 1990)35-43.

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