スタッフのチカラ

【寄稿】酸性紙問題私注 — 図書館への期待 —

1984年金谷博雄

1.  はじめに --- 和紙と洋紙

数年前に近代の酸性紙が危ないという話をはじめて耳にした時、私の感想は複雑なものであった。

洋紙が永くもつものとは、私は以前から思っていなかった。和紙は信じられたが、洋紙は「信じる」という範疇のものではもともとなかった。洋紙・洋装本は大量生産・大量消費のための消耗品で、和紙・和装本の代用品とわりきっていた。それで私はその少し前から純良な手漉和紙に憧れながら、手組印刷と和装製本を独習しはじめていた。

生計を立てるのに頼る職業が本職だとすれば、私のそれは出版社団体(日本書籍出版協会)事務局の仕事であり、具体的には市場にある書籍の総合目録を編集することであった。だが己が本当に楽しめる仕事という意味では、私は和装製本の方が本職だと信じていた。好い趣味ですね、とあまり真顔で言われる時は反撥もした。この「趣味」は、実は世の表通りてする仕事の機械化の進行そのものが私に強いたものであった。裏での「本職」を維持することで、私はかろうじて心身の平衡を保っていたのだ。

私の住む貧港にかつて提督ペルリが碇を下ろして以来、この国の文明開化は和魂洋才という文化を生んだ。港は開いても、魂は開かない。舶来の技術は学ぶが、それは経済のため、富国強兵のためであった。あげくのはて国敗れても山河あり、土壇場になれば誰も「俺は信じてやっていたわけではない」と開き直るつもりで、とりあえずは皆「表通り」につきあいがいい—本心では馬鹿にしながら。他人事ではない。和紙と洋紙、ふたつの世界を使いわけていた私自身のことである。

私は酸性紙問題のアメリカ図書館人による資料を読み進めるうち、そうした私自信の迷い、後ろめたさの核心を衝かれる思いがした。酸性紙の寿命が何年だとか、欧米の図書館では蔵書の何割がだめになっているとかの情報よりも、その対策に長期に熱中している様に驚いた。洋才にも洋魂あり、また表での生き様こそ歴史は問うという視点。いい歳をしてこんなことに驚いた。いまだ精神から政体にいたるまで、忌まわしき二重底構造に棲まう東洋の発展途上人。

2.  保存と利用 --- 図書館の機能として

感傷的にいえば、『本を残す』(1982年金谷編訳刊)より『本は残る』という本を書きたいものである。そんな時を一刻も早く招きたいとも思う。ところで「残す」と{残る」の語感の違いはどうか。残すには作為があり、残るは何だか堂々としている。だから前者の方が人の抵抗感を招く。本は残そうとして残るものではないとか、残す主体は自然とか歴史とかの個々の人為を越えたものだとかの言辞は人を魅する。だが実際をいえば、本は残す人間なしに残るものではない。歴史をふり返ってみてもいい。残す意思と技術は、この近代がもっとも稀薄になっている。作る人、作られる物にも、モニュメンタリティは失われた。

さて、何を残すかの問題がある。しかし、どういう内容の本を残すかという議論はつまらない。一見重大そうだが面倒なばかりで面白くない。別の面から考えよう。

私は「本を」と題した。新聞でなく雑誌でなく、その他諸々の紙のことでないのは、意識してみれば明らかだ。本を、と言った時すでに選別をしている。紙の品質でいえば上質紙が中心になる。上質紙とは通称で、日本工業規格では印刷用紙を「パルプの配合率」(%)により別表のように分類している。

 

印刷用紙 化学パルプ 砕木パルプ 通称 主用途
A 100 0 上級 上質 書籍
B 70以上 残余 中級 セミ上質 書籍、雑誌
中質
C 40以上 残余 上ザラ 雑誌
D 40未満 残余 下級 上ザラ 週刊誌、新聞

{注} 化学パルプは木材をチップ(小片)にし、薬品で煮て不純物を溶かし去ったもの。砕木パルプは木材を機械的に磨砕したもので、リグニンなど非繊維素分も入る。

 

もちろん私は上質紙を使った書籍だけを残そうと考えているわけではない。いちばん永く残るはずの上質紙ですら酸性抄紙によるものは問題があるという力点の置き方から「本を」としたのは事実だ。しかし実をいえば、人は子を残す、財を残す、名を残す—-のなかで、私はこの冊子を残したかったにすぎない。頁数は満たぬとも私の定義によれば本であった。残すことは創ることであった。さらに大方の失笑を買うことは承知のうえだが、本は木がなければ作れはしないことを、本という字を書いてみると実感できて好きだからでもある。後に紙業界の方から『を残す』の本と言われたりして、私も救われている。『朝日新聞』での先延洋泰氏の「論壇」投稿記事では、校閲部員が社の方針を体して『を残す』と誤植してくれた。

冗談はさておき、この残す意識は出版の世界でも働いている。今の出版界には本の寿命など関わりない、と出版人みずからが強弁しようとも、書き手も含めて出版物の送り手というものは、作った本が残る(残ってしまう)ことを配慮せずには済まない。その配慮が表われてしまうのが、前に掲げた印刷用紙ABCDの等級表のどれを選択するのか、さらに同じ等級でも多彩に分かれる品質のどれを選ぶかという場合である。ひと口に雑誌とか文庫とか言っても、その用紙が様々であることはご承知のとおりである。

このことは出版物の受け手にとってはどういう問題であろう。耐久性についての送り手の統一見解がいかに首尾一貫していようと、それが受け手の見解と完全に一致することは原理的にありえない。保存と利用の権利は本来、受け手の側にあるからである。ここに図書館の位置がある。その方針総体を問う視角がある。新刊書店と大差ない短い棚寿命で収集・廃棄を行う図書館があったら、それは図書館とは言えない。しかし劣った用紙でできた資料の保管・修理をどうするのかという図書館の保存・利用の原点が、私のような素人目にはおぼろげにしか見えないのである。

物として出来の良い本だけを集めていれば、保存はいらない。言いかえれば、保存態勢がなければ出来の悪い本には手が出せまい。今年(1984)7月26日号の『週刊プレイボーイ』にニュース劇画「酸性紙本時代」が出たのを7月末に人づてに聞いた。すでに書店にはない。私の利用しやすい図書館で、同誌をもっているところはなかった。そこで私は、友人に頼んで街の床屋さんから払い下げてもらい、現物と中性紙にコピーしたものとを残している。小林嬌一氏『中性紙本時代』に伍す内容の文献である。保存と利用が二律背反に語られる現実には根拠がある。その打開が易いとも思わない。大量生産・大量消費の出版時代が抱えたあらゆる矛盾が図書館の現場に集中して現われていればこそ、図書館の世界の内部だけで解決できることでもないだろう。しかし出版物の保存という社会機能を体現しているのは図書館である。図書館から保存の原点が失われたとしたら、社会は現在の出版物の送り手に歴史の立場から物を言う機能を失うことになる。送られた物を黙々と受け取るだけの社会が理想とすれば別だが。

図書館はある側面から見ればその100%が保存機能であり、別の側面から見ればまた100%が利用機能であろう。図書館を平面図的にでなく、立体的に、そして歴史というさらにもうひとつの物指しを駆使して考えたいものだ。

3.  脱酸法の研究と中性紙

脱・酸性をうたって商品化したものに、最近では飲み物があり、そして中性紙がある。酸性雨という今世紀最大の地球的大気汚染の対策に遅れているこの国で、中性紙はちょっとした優等生に見える。パルプ産業が公害を生み、地球の緑を直接食い荒らす産業であることと考え合わせて、いぶかしく思われている向きもあろう。

だが私には、もっと深刻にいぶかしく思うことがある。すでにある酸性紙、これからも作られる酸性紙の酸性度を中和して劣化を食い止める手段である「脱酸法」に興味を示す人が少ないことである。まだ完成した方法がないからかも知れない。だが日本の図書館界で、脱酸法の研究開発を専門家にもちかけたという話はまだない。日本の技術水準が及ばないという問題ではあるまい。図書館人が出版界に関心が強いのは結構だが、もっと中性紙を使えと言うわりには、みずからの蔵書の延命手段である脱酸法には関心が薄いようである。他人の手でやることに注文はきついが、自分には意外と甘い。

その証拠に、図書館で作る目録・資料・雑誌などの出版物に中性紙を採用するのかという段になれば、ご当人の言う「もっとも悪い出版社」なみの対応で、大半は「予算上」の理由から立ち消えになる。本誌を含め図問研の出版物に中性紙を採用してその旨を明示すれば、この拙文などはるかに及ばぬ説得力をもとうし、会員・読者も中性紙がどんなに良いのか悪いのか、高いのか安いのかを、手に取って知ることができようというものである。

大げさな脱酸法を言わずとも、一枚ものの資料などを包んでおくだけでも一定の劣化阻止効果があるといわれるアルカリ性保護用紙も今は国産されている。タトウ紙や封筒やスクラップ・ブックなどに仕立てて利用し、実際に効果があるかを自分の眼で見てみようという館はないか。製品とは利用者が生み、完成させるものである。—それとも欧米型脱酸法が完成した時に、本をあちらに送って処理してもらった方が安いとでも思っているのだろうか。

ところで出版社で原本といえばやはり「永久保存」で、時に晒されても傷みの少ない原本は出版社の誇りである。出版社の財産はその出版目録だというのは、完壁な図書館ネットワークができても肝心の本が使用に耐えなければ何にもならないのと同様、物事の半面でしかない。本当の財産は原本のひと揃いである。だが戦後のものはともかくとして(それもあやしい場合がある)、全点・各版ともなると実情はなかなか揃っていないようである。しかしそうした出版社の中にも、本の脱酸法があるならぜひ教えろと言う熱心な人もいる。図書館も出版者なら、出版社だって図書館なのである。

図書館人と出版人は、物としての本を通して話し合うなら、言いかえれば物が語る言葉にともに謙虚に耳を傾けるなら、意外な成果が上がるのではなかろうか。用紙の変質ばかりではなく、製本材料やホットメルトが時間・人・コピー機によってどんなありさまになっているかを出版人は知り、図書館人は教えるべきである。そういう努力をなぜ惜しむのだろう。問題は人と人との間にありである。

出版物は紙製品ばかりではない時を迎えつつある。未来逃避行型の識者が描くような図になるかどうかは別として、出版社も図書館も変容しよう。しかし今の調子で行けば、保存問題はさらに厳しい容貌で立ち現われると思われる。すでに30年前に作ったマイクロフィルムが変質しているという事実がある。磁気テープは使わずに長期間放置しておくとビットが狂うという問題がある。ご注目の磁気ディスクの自然寿命は磁性粉とテープの化学反応により意外に短いという物騒な噂も囁かれる。だからダビング装置がもてて、皆がコピーを作れ、著作権の処理が話題になる。作者の死後50年までという著作権の存続期間すら物質的にもたない作品が満ちあふれる。権利が作品をのり越える。

情報媒体の寿命は、文明が進めば進むほど「退歩」する。作られる物の寿命からいえば、この文明は進歩どころではない。和紙もパーチメントも千数百年は軽くもっている。法隆寺は同様にもっているが、今の釘と金具だらけの木造民家はどうか。鉄筋コンクリートのビルや橋は、酸性の印刷用紙のBクラスではないか。近代の産物は大量に安く作れるようになったかわり、時間の進みが速まり、幼い子供もずいぶんふけた顔つきだ。人の寿命は本当に伸びたのかと疑わしくもなる。人の腕に棲む技をそのような形態で保存し損ない、すべてを機械と薬と図面(本)に置き換えてきた文明が、気づいて腕の技を復元しようにもその伝承はあまりに絶えている。人問が人間として伝承されていない。

とすれば、保存は従来の食品産業などとは別に、情報産業の補完産業として重要になるかも知れない。シュレッダーからパウチ(ラミネーション)まで、水にすぐ溶けて消える紙から中性耐久紙まで、情報媒体の寿命管理は情報そのものの管理の問題としてひとつの次元で語られている。保存は単なる技術問題ではなく、当然のこと、誰が何のために要求するかの問いを含んでいる。

4.  製紙 ・ 出版 ・ 図書館

紙を酸性にする主要な原因は、サイズ(インキ止め)に使われる硫酸アルミニウム(礬土)である。松脂から採るロジン粒子を紙料のセルロースに定着させる働きをし、無色透明の溶液で使う。中性抄紙の場合はロジンや硫酸アルミニウムを使わず、たいていは合成サイズ剤を使う。石油化学による合成物質で輸入物も多く、値段も高い。ロジン・サイズが硫酸アルミニウムの働きでセルロースに物理的に固着しているのに対し、中性サイズ剤は化学反応によってセルロースに結合するから、外界の変化には極めて安定的なのだという。中性紙は近代製紙はじまって以来の革命と言われるが、紙の化学構造にどんな変化が起っているのか、私にはわからない。だから言うのだが、中性サイズ剤や中性紙の広い意味での安全性に心配がないかを知りたいと思っている。極端な話、幼児は紙を食べてしまうことがある。硫酸を含んだ方の紙はどうかも知りたい。羊や牛はどう言うだろうか。セルロースは人間の消化器官では消化されないが、羊や牛などの消化器官の中にはセルロースを加水分解する酵素をもった微生物が存在しているのだそうである。ともあれ未歳生れの方でも、あまり紙は食わないがいい。「タバコが肺ガンと関係があることはもはや疑う余地のない常識とされているが、有害物の生成がタバコの葉の燃焼によるだけでなく、さまざまな物質を加えて漉かれた巻き紙の燃焼も一役買っているとの説も出されている。詳しいことはまだ確言できない。」これは町田誠之氏『紙の科学』の一節である。(184-185頁)

中性紙の開発は製紙会社がコストダウンの切札として行ってきたというのは、世界中で事実である。中性サイズ剤は高いにしても、中性抄紙では酸性抄紙の場合に較べて安い国産の填料(石灰石から採る炭酸カルシウム)が使え、その添加量をある程度増しても、したがって木材パルプを減らしても紙の物理的な強さを保て、化学的変質、つまり寿命の点でも強いからである。木材という天然資源に危機感を深める先進国、いな先に(酸性紙を進めて)遅れた国々が、中性サイズ剤を使えるようになればこぞって中性紙に進むのは必然とも言える。今は中質紙以下の中性化はむずかしそうだが、意外に早そうだとの声もする。

今は中性紙であれば何でも良いという時ではなかろうと思う。製紙技術としては、実現可能な品質の上限がおおいに押し上げられたことは事実である。だが従来の酸性紙時代と同じ品質でよいという場合にはじめて、製紙会社としてはコストダウンという中性抄紙転換にかける期待が満足されるはずである。中性抄紙のもつこの側面故に、大半の製紙会社ではいわばこっそり中性化を遂げたかった。実際にそういうふうにしてすでに中性化していたものもある。それは出版社などからの値下げ要求を恐れたからである。こうした両者の関係には、唖然とするほかない。

要求があればそれに応える力はできたとしても、要求がないところに良い紙は提供されない。良い紙を実現するためには、良い紙とはどういう性質を備えた紙であるかをはっきりと言える態勢を、図書館人こそが核になって作るべきである。中性紙については外国産の中性紙とも当然比較してみるべきだし、さらには製本や印刷や編集法についてさえ、「選択を許されない選択者」である図書館人が「良い本とは何か」を言って然るべきである。図書館も商品を買って使う消費者なら、消費者団体らしく本の耐久・耐用性など品質テストのできる人と設備を用意すべきである。かつて『本の雑誌』だったかが各種の文庫本を高いところから放り投げてその結果を報じていたが、これを非難できる人はいまい。先に唖然とした製紙界と出版界の関係を、図書館人は本当に笑えるだろうか。

問題の発見にしろ対策にしろ酸性紙問題については欧米の図書館運動に遅れ、その棚ボタを日本の製紙技術者を経由して頂戴しているようではだめである。これでアジアの図書館人と連帯できるとは思えない。1983年末、東京で開かれたアジア・オセアニア国立図書館長会議の「勧告」第六項を見よ。彼らは日本にこそ期待している。酸性紙問題で私たちがアジアにお返しできるのか。もちろん彼らの森林を伐り倒しているお返しにである。彼の地では酸性抄紙を勧め、国内では中世抄紙を進めるというのを製品の差別化政策にしてはならない。

1984年7月末には国立国会図書に酸性紙その他対策班ができたそうである。当事者は大変謙遜しておられるが、外からの期待の中で、やりがいもあろうというものである。

他では蔵書の劣化状態の実地点検に着手された館が数館ある模様である。また図書館学教育の場ではレポートの課題に酸性紙問題をとり上げたところもある。息長く取り組まれんことを、そして問題をさらに幅広く掘り起すことに挑戦されんことを願うばかりである。

ページの上部へ戻る